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畏怖の樹海



  一. 先生と生徒


 放課後の廊下を一人歩く。新調したばかりの革靴で床を叩きながら、四ツ柳は保健室へと向かっていた。
 四ツ柳自身の体調が悪いわけではない。保険医に相談したい悩み事があるわけでもない。ただ様々な要因から一番都合のいい場所が保健室だった。ただそれだけの話だ。

――お姉様、見て見て! 今日ムスカリが花開いていましたの!
――レディ、走っては転んでしまうよ。

 通りすがりに聞こえて来た女生徒の他愛無い会話に、四ツ柳はむず痒い顔をして歩みを早める。
 レッドブランチスクール、ここはいわゆるエリート校だ。富裕層や上流階級の子女が、まるで一つの街でもあるかのような寄宿制の学園に集められている。学園の周囲には生徒を閉じ込めるかのように鬱蒼とした森林が生い茂っており、外出の為の足は校門外にあるバス一本。外出許可は非常にとりづらく、生徒は中学一年生から高校三年生の六年間のほとんどをこの学園で過ごすこととなる。

――合わないんだよなぁ。

 そう、四ツ柳は心の中で独り言ちる。高校から編入学しただけでも周囲から浮きがちだというのに、加えて生徒たちの様相もこうとなれば、平平凡凡庶民出身の四ツ柳にとっては慣れようがなかった。 勿論ああいった品行方正な子女たちばかりではないのだが、生活圏内でごく当たり前のように存在し受け入れられているという事実が、全く違う世界に来てしまったのだという気持ちをいっそう強くさせていた。
 そういうわけで、入学から数日もしないうちに部活にも入らず自身の宿舎にも帰らず、保険医から締め出されるまで保健室でだらだらと過ごすようになってしまったのだ。別にどこぞの少女漫画のように高飛車なお嬢様、お坊っちゃま達に貧乏臭くていじめられている、だなんてことではない。
 そんなバカげたことを考えながら、四ツ柳は保健室の扉をガラガラと音を立てて開く。お邪魔しまーすと声をかければ、はーい、いらっしゃいと間延びした声が部屋の奥から返って来る。

「なぁ、晦先生。飴とかないの?」

 陽に照らされた保健室の中では、白衣に身を包んだ長身の男性が一人、眉を下げながら書類と向かい合っていた。
 晦先生と呼ばれた男は「はあ、飴? えーっと」と言いながらごそごそと白衣のポケットを探る。

「お、マジであんのラッキー」

 思いがけず飴を貰えそうな雰囲気に心を弾ませていた四ツ柳に向かい、ポケットを全てさぐり終えた晦がぽつりと断言する。

「ない」

「ねーじゃん!」

「たまに入ってる時があるんだけど……」

「今日はハズレの日か〜」

 四ツ柳はちぇっと口に出して、保健室の椅子に腰かけて足をぶらぶらと遊ばせた。

「飴、好きなのか?」

「好きって言うか、先生なら持ってそうだし。くれそーって感じする」

「あー……」

 晦は心当たりがあるかのような声をあげて考えこんでから、何かに気がついたかのようにハッとする。

「いや、たかってるだけか!?」

「え〜そんなことないって〜。ほら〜先生優しいからトローチ以外にも、のど飴とか個人で入荷してくれてそうだな〜ってさ〜?」

 食べ物をたかられているだけなのかと疑問を表出させる晦に、四ツ柳はけらけらと笑う。

「なんだ。のど飴でいいのか」

 晦はおもむろに立ち上がり、おやつのような飴ではないなら常備していると棚からハッカのど飴の瓶を取り出した。すらりと伸びた体躯が立ち上がり、思わず四ツ柳は首を上に上げて晦の所作を目で追った。マジで別であるんだと驚く四ツ柳に、晦は飴を何粒か差し出しす。 

「ほら」

「おー、ありがと」

「別に美味しいやつじゃないけど……」

「いいじゃんハッカ飴。ドロップ缶とかで避けられがちだけど、俺全部食うよ」

「あー、たしかにいっつも最後に残しちゃってる。そっか。じゃあ、今度残ってたらあげよう。ハッカも好きなやつに食べられたほうが嬉しいよな!」

「余りもんです、って言われながら渡されるとなんか……食指動かねえな……。いや、でも嫌々喰ってるなら腹の足しになるし俺が喰う」

「その方がハッカも浮かばれるよ」

「おう」

 飴が浮かばれるってなんだ?と疑問に感じながら、四ツ柳は貰った飴を噛み砕いていた。


 たわいもない会話を延々と続けていると、次第に窓の外は橙色に染まっていく。グラウンドで部活をしていた生徒たちの声も静かになってきている。

「ん、もうそんな時間か。今日はもう閉めるかなあ」

「お〜、今日もお勤めご苦労様せんせー」

「お疲れさまでしたー」

 広げていた書類の数々を片していく晦を横目に、四ツ柳はじっとグラウンドを走る生徒を眺めていた。

「……というか、四ツ柳は放課後までこんなところに来て時間もったいなくないか? 部活とか入らないのか?」

 外を気にする四ツ柳を見てか、少し心配そうに晦はそう言った。

「ほら、みんな元気に走ってるぞ!」

 そんな晦に対して少しばかり逡巡して、四ツ柳はぽつりとこぼす。

「んー、陸上は中学でやってたけど……」

「おお、陸上やってたのか。競技は?」

「そこまで食いつく? 短距離のほう、だけど。中学時分の部活動なんて真似事だったよ」

 晦はにこにこと笑顔になって耳を傾けていた。生徒の個人個人の話なんかそんなに面白いだろうかと戸惑って、四ツ柳は閉口する。
 ココで走ってると大事なの見落としそうだしな、と目を伏せて呟き話を逸らした。

「放課後はここが一番人の声も聞こえるし、様子が見れるからいいかなー。先生に追い出されない限りだけど?」

「まあ、仕事の邪魔にならなきゃ追い出すってことはないよ」

「じゃあ邪魔にならない程度に先生にちょっかいかけてくスタイルで」

 そう言って四ツ柳は、ポケットに貰った個包装の飴を詰め込み、荷物を手に提げて立ち上がる。

「ちょっかい……ちょっかいはまあ、うん、でも保健室には来たいときに来てくれて構わないよ」

「……お人好し過ぎて、足すくわれないように気を付けなよ」

 利用している立場の人間が言うのもなんだけれど、と四ツ柳がため息をつきながら晦の反応はと伺うと、不思議そうにしながら「……足?」と自らの足先を見つめていた。

「先生もしかしてバカなの?」

 思わず口から出て、軽く片手で口を抑える。

「ばか!? 急にひどいな」

「ごめん、何でもないわ」

 生徒に馬鹿と言われて、しゅんと項垂れる晦に四ツ柳は悪い悪いと笑いながら小声で言う。

「ん〜まあ、いいか! 今日はもう閉めるぞ!」

「おっ、先生の切り替えの早さ好きだよ」

 そうして、二人は荷物をまとめて保健室を後にする。
 校舎から離れたそれぞれの寮に向かうためには樹海に囲まれた広大な学舎を進み、石畳の道を抜けなければならない。学校から自宅までの距離と考えれば近くはあろうが、これが学校の敷地内だと考えるとやはり随分と広い敷地だと思う。

 目の前に寮の棟々が見え始めた頃、ふと晦が立ち止まり、周りをきょろきょろと見渡し始める。

「……? なにか聞こえなかったか?」

「……なんか聞こえた? 寮の奴らがバカ騒ぎしてんじゃねえの……って思ったけどココの奴らはしねえか」

「そうじゃなくて、なにか動物の鳴き声……。吠え声、みたいな」

「鳴き声、ねぇ……。俺は聞こえなかったと思うけど。ハッキリ聞こえたの?」

 そう訊ねると、晦はこくりと頷いた。不安げにあたりを見渡す晦に訝しみながら、四ツ柳は立ち止まって耳を澄ませる。
 遠くから、細く何かが聞こえてくる。
 狼の遠吠えだ。

「ほら、また……」

「言われてみれば……って感じか」

「……野良犬、いるとか?」

 晦は四ツ柳よりもはっきりと聞き取っているのか、耳を澄ませなければわからない小さな遠吠えが耳に届くたびにびくりと肩を震わせる。

「先生方の方が耳に入りやすいんじゃねえの、そういう噂」

「む……後で用務員さんにでも確認しておくか!」

 そんな噂は聞いたことがなかったらしい。

「迷い犬とか、野良犬だったらまだ良いんだけどな」

「ほら、なんか、でかい犬とか、危ないと困るから! さっさと帰るぞ!」

 早くここから離れたいと主張するかのように、晦は四ツ柳の背中をぐいと押して寮の方向へ再び歩みを進める。

「はいはい、さっさと帰るにしても気を付けてくぞ」

 レッドブランチスクール、ここは表向きとは異なる別の表情がある。それは自分たちに害あるものとして常に隣り合っている筈なのに、四ツ柳では知覚することすら出来ない不思議な一面。晦はその一面を無意識に知覚しているらしく、そのことが四ツ柳が保健室に通う理由の一つとなっていた。
 普段は聞こえないような動物の声も、学園の普段と異なる一面がもたらすシグナルかもしれない。
 先生を寮に送り届けるか、と四ツ柳は狼の鳴き声にびくびくと震えて背に隠れる晦を見た。無意識にでも異変を知覚で来てしまう者は異変に害されやすい。たとえ大の男といえど、人気のない場所で一人で歩かせるわけにはいかないだろう。四ツ柳は競歩のように早く足を進めて、教職員寮の前で「あ、行き過ぎた」とすっとぼけた。

「気をつけて帰るんだぞ!」

「だいじょーぶだいじょーぶ、走ってけばすぐだし」

 晦も晦で生徒をこんな道で一人で帰らせるわけにはと思っているようだったが、どうやら狼の恐怖には勝てないらしい。教職員寮の前で不安げに走り出す四ツ柳を見送っていた。

「じゃーなー先生、また明日ー」

 ひらひらと手を振って暗い石畳の上を四ツ柳は駆けて行く。へらへらと笑っていられる状況ではないのかもしれないと、真剣な表情をして自分の寮へと向かう。
 あたりを警戒しながら歩くも、周囲には何もいない。けれど視界に森が映るたび、何者かに監視されているような感覚が、ずっと消えなかった。



  二. 妖精の言葉


 昨日の狼の遠吠えは何だったのだろうか。
 朝からなにとはなしに、昨日のことが気にかかりながらも四ツ柳は授業を受けていた。

——世の中に、物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思いつつ……。

 コツコツと黒板に文字が書かれる音と、文字を読み上げる教師の声だけが響き渡っていた。教師は色付きのチョークで白い文字で書かれた一文に横線を入れながら、解説をしている。
 それは読みたい物語を手に入れようと躍起になる少女の物語。解説と板書の合間を縫って、文章の先を読み進める。

 ふいに、目にする文字がぐにゃりとかすみ、歪んだ。疲れ目だろうかと目を擦っても、今まで読んでいたソレが何だったのか認識が出来ない。
 何かがおかしいと認識するが否や、更には教師の言葉が異音へと変貌していく。いや、異音というべきなのかどうかも判別がつかない。いうなれば、言葉自体は日本語のように聞こえるのに、その単語が一つも噛み合っていないのだ。
 周囲の人間は何の反応も示さない。違和感を覚えているのは、教室のなかでも四ツ柳だけのようだった。
 教師の口が開く度、耳鳴りがこだまする不快な音があふれる。授業の最後にはもはや、教師が言葉を発しているのか、虫か妖精の羽音だとでもいうのか、奇妙な耳障りな音としか感じられなくなっていた。

「こんな突然来るものなのかよ……! クソ、正気なのは俺だけか!?」

 唖然としながらも、四ツ柳は突然の周囲の状況に慌てて立ち上がって、廊下に飛び出した。背後で教師が何かを言っているが、意味は到底聞き取れない。がさがさと耳障りな音が咎めるように教室から聞こえてくるばかりだ。授業中であるはずの教室の様子は、声は、どこもそんな調子だ。
 四ツ柳にはこの現象に心当たりがあった。見たことがあるわけではない。話に聞いたことがあるだけ。

「――異界化だ」

 レッドブランチスクールの、もう一つの顔だった。
 隣り合わせの別世界。自分たちのいる世界に干渉を行い取り込み、やがて全てを呑み込もうとする理解の及ばない現象。異界に遭遇した者は行方不明となってしまうか、運よく帰還が出来たとしても異界の影響を受けて、元の人間性を破壊されてしまう。ただし、一般人であれば一生のうちに遭遇するかどうかわからない珍しい現象だ。故に殆どの人間はその異界が存在することを知らずに今を生きていける。
 例外を除いて。
 この学園はそんな例外となる場所だった。元々異界に入り込みやすい土地であるとされている。つまるところ危険地帯だ。そんな場所がどうして学校になっているのか、何故表立って事件となって扱われないかは、知る人ぞ知るというところでしかない。四ツ柳自身も詳しく知ることは出来なかった。
 場所という要因に加えて、異界に遭遇しやすくなる、もう一つの例外がある。

「晦先生!」

 四ツ柳は声をあげて、ガラリと保健室の扉を開ける。四ツ柳の推理があたっていれば、きっと彼が居る筈だ。居てくれなきゃ困る。
 きょろきょろと保健室を中を探し回れば、晦は怯えたような困ったような表情で部屋の隅に蹲っていた。

「ビンゴ」

 ふーっとため息ついて、四ツ柳は部屋の隅にいる晦に近づいてく。何かおかしくなってしまっているところはないなと、確認をするように。

「良かったとは一切言える状況じゃねえけど、先生が居て良かったわな……」

 異界は異変を知覚できるものを好む。そういった性質をもつ人間は例外的に異界に招かれやすいのだ。四ツ柳が保健室に入り浸っていた理由は晦のこの体質にもあった。

「四ツ柳、は、無事なのか……?」

 おそるおそる、晦はそう言葉を発する。よっぽど怖い目にあったのか、小刻みに震えながらもゆっくりと立ち上がった。

「俺は今んとこ異常なし。周囲の声がかなりヤベーけど、危害は加えられなかった。先生も大丈夫っぽそう?」

「……この学校に来てから時々様子のおかしいことがあったり、してはいたんだけれど……。突然、先生たちの言葉がわからなくなって」

 混乱しているのか、晦は要領の得ない言葉を並べていく。そうして相手の顔色を伺うようにして言葉を続ける。

「……話だけには聞いていた事があるんだが、笑わないか?」

「この状況で笑うバカがいると思うかよ?」

 はっと口角をあげて四ツ柳が笑うと、晦は意を決したように話し始めた。

「ここは異界というところ、なんだと思う。言葉だけは聞いたことはあった。ただ、どういうところかは知らない。……ずっと、逃げてきたから。こういう……怪奇現象が発生し始めるのが、”異界”の前兆なんだ」
 
おずおずと言葉を並べる晦に、やっぱりなと四ツ柳の言葉は思わず呆れたような、あるいは同情するような語調になった。

「何も知らねえでココに来てんだな」

 晦先生がそういう人間だったら好都合だなと思って傍に居たんだけど、と四ツ柳は心の中で続ける。少なくとも異界の前兆に対して百面相をする人間は訳知りではないだろうし、それがフリだとすれば余りにも労力を掛け過ぎているとは思っていた。

「……? 四ツ柳は、なにか知っているのか」

 落ち着きはらい、何かを知っていると態度に見せる四ツ柳に晦は不思議そうに訊ねた。

「知ってるって言うと誤解を生むかな。先生が知ってるのはそれくらい?」

「異界は……発生する原因がある。その原因を突き止めないと異界に連れ去られてしまう、とは聞いている」

「はは、それ教えてくれた人に感謝しとけよ。ここまで遭遇せずに生きて来れた視える人間、珍しいのかもしれねえな」

 はて、先生って幾つなんだろうか。四ツ柳は改めて晦を見た。つやつやとした黒髪と荒れの少ない肌は比較的若い人間である証拠だろう、三十にはまだなってはいなさそうだ。

「……? 教えてくれたのは、うちの婆さんだけど……。遭遇、って何に、っ」

 会話の途中で晦の表情が酷く硬くなった。何かに怯え、後ずさりをする。
 次の瞬間、ばん! と何かが叩かれる音がした。保健室の窓が叩かれている。窓には、こちらをじっと見つめる人間が立っている。ばん、ばんと窓を叩き、こちらをじっと見つめる人間が数人。

 ――立っている?

 ここは二階の筈だ。度重なる増改築で、グラウンドから伸ばしたスロープの位置が校舎の二階に繋がったものだから、保健室が二階に移動したのだと聞いていた。
 怯えた晦が、ぐいと四ツ柳の袖を引っ張った。

 不意に窓辺に立つ人間達の姿が揺らいで変わる。わんわんと耳鳴りのような物音を響かせる彼らの容姿は、人の形状をしていなかった。脈の走った透明な羽。ぎしぎしと細長い節足が擦れる音。ぎょろりとした目玉が落ち着きなく動いている。人ほどの大きさの昆虫のような何かが、ぶぶぶと耳障りな羽音を鳴らしている。

「先生、一個だけ言っとくわ。俺は異界を視る力はない。こういうとこは一人じゃ出られない」

 突如として変化した目の前の光景に気圧されながら、これはまずいと、四ツ柳は矢継ぎ早に説明をする。
 異界は一人じゃ出られない。異界の光景を正しく見られるのは知覚できる者だけだ。異界の干渉に抵抗できるのは知覚できない者だけだ。手を繋いで、触れて、ようやくそのお互いにないものを補い合うことが出来るのだと聞く。

「絶対その掴んだ手、離すんじゃねえぞ」

「え。あ、そう、なのか?」

 袖を掴んできていた手を、四ツ柳は離さぬようぎゅっと握る。自然と晦の手にも力が入った。

「とにかく逃げるぞ、走れ!」

 あてなど何処にもないが、まずは校舎から離れなくては。晦の手を引き、四ツ柳は走り出した。
 背後からする、ばんばんとガラスを叩く音がうるさい。保健室の扉に手をかけたその瞬間、化物たちの強打に耐えきれなかった窓ガラスが盛大な音を立て崩れ落ちる。保健室に飛び込んできた巨大な虫の形をしたなにかが、二人に掴みかからんとして腕のような何かを振り上げる。
 息を呑んで、構わず四ツ柳は晦の背中を突き飛ばした。
 ごろごろと、晦は「おわ……っ」と声をあげながら保健室の外へと転がっていく。振り上げられた怪物の腕は四ツ柳だけを掴み、部屋の中へと引き摺り込もうとしていく。

「だーっ、クッソ、こっち来てからも走り込んどくべきだったな!」

 四ツ柳は悪態をつきながら、襲い掛かってきた巨大な虫を振り払う。虫を足蹴にして距離を離し、「四ツ柳!」と叫び伸ばす晦の手を取って雪崩れ込むように廊下に飛び出した。
 勢いよく扉はバタンと晦の手により閉じられて、鍵を賭けられた。バンバンと扉を叩く音が煩い。

「い、いまのは、いや、それより、だ、だいじょうぶか……!?」

 晦は狼狽しながらも、化物に掴まれた四ツ柳の腕を手に取った。腕に触れて、晦の表情がいよいよ困惑の色を増していく。
 節足に掴まれた腕の皮膚がざわざわとしてる。違和感の範囲が次第に広がっている。腕、肩、首を通って、頬へと、四ツ柳の身を包むには奇妙なふわふわとした感覚が覆う。
 夢でも、幻でもない。現実として、四ツ柳のものであった腕が異界に侵蝕されてしまったのだ。

「これ、は、羽……?」

「理解に苦しみはするけど……見た目が変わったくらい、どうってことないでしょ」
 ひどく狼狽える晦に落ち着いて貰おうと、四ツ柳は深呼吸をしてつとめて冷静であろうとした。下手に異界化した体を触らせまいと腕を引っ込めながら。

「異界化した人間、はじめてみたわけじゃないでしょ。保健室に来た人間はどうだった? ここまでじゃないにせよ、覚えがあるんじゃない?」

――この学校に来てから時々様子のおかしいことがあったりしたんだけど。

 そう、晦は答えていた。たびたび保健室に来る生徒たちを見ておろおろしていたのは、おそらく異界化に巻き込まれた生徒が理由だったのだろう。

「あ、ああ……、こういう、ことだったのか……。悪かった、何も出来なくて……」

 羽毛に覆われてしまった腕を、頬を触れようとして、触れられなかった晦の手が行き場を無くしていた。
 背後では、どんどんと扉を叩く音が増してきていた。かけた鍵すら破られるのは時間の問題だろう。

「驚いてる暇はなさそうだぜ。あいつらが追って来る前に立ち去らねえとな」

「そう、そうだな。先生の部屋にも救急箱とかくらいはあるから……。動けそうか?」

「動くには支障ない、と思う」

 四ツ柳は立ち上がって、自身の身体の動きを確かめる。元の腕より上手く扱えるか疑問ではあるが、問題はないだろう。

「連れてってくれよ。あんたが居ないと視えねえものもあるからな」

 問題ないと笑って、四ツ柳は異界化されていない手を晦へ差し出した。宙に浮いていた晦の手がそれを掴む。

「異界化の原因、探し出して帰るぞ。積もる話もそれからだ」

「あ、ああ。原因……それをなんとかしたら、それも」

 不安げな表情をしながら晦は羽毛に覆われてしまった四ツ柳の腕に視線を泳がせて、「なんとかしないとな」と呟いた。



  三. 人の樹海


 手を取り合って、二人で校舎から駆け出していく。
 寮に帰れば自分の救急箱があるから四ツ柳の腕を治療できるかもしれない、という晦の言葉を一先ずの指針とし、寄宿舎へ続く道に足を踏み入れたところだった。
 周囲の風景に奇妙な違和感を感じた。石畳や周囲の建物は普段どおりだが、やけに木々が多いような気がするのだ。いくらレッドブランチスクールが緑に囲まれているとはいえ、生活圏内はここまで緑に浸食されていただろうか。
 不思議に思っていると、明らかに様相の異なった木が目に飛び込んで来た。
 無数の木々が破れた制服を己が枝に引っ掛けて、石畳の上にずらりと並んでいる。
 何故こんなところに、と二人して疑問を持ちながらこわごわと横を通り過ぎる。そうして邪魔っけな木々の間を縫って歩んでいると、ざわざわと葉が揺れる音が不気味に響いてくる。見上げると、ぐにゃりと捻れた幹が揺れ動いているのが目についた。
 こちらを覗き込むように曲げられた木肌には、いびつに歪んだ人の顔が浮かんでいる。よくみれば樹木の幹や枝葉は、捻れた人間の手や指、足、さまざまな人体のパーツが変形したものに見えるではないか!

「なぜおまえたちだけ」

「どうして森にのまれていない」

 ざわめく木立は悲痛な人の声となり石畳を進む二人に降り注ぐ。ぎしぎしと幹の割れる音を立てながら、樹木は歪み捻じくれた枝や幹を伸ばしてくる。
 そうか。これらは異界に呑まれ、樹木に変わり果てた生徒たちの姿だ。人間の身体を無理やり引き延ばされ、樹木のような形状にされている悍ましい光景だ。

 「……おいおい、勘弁してくれよ。のまれきった人間がいるなんて聞いてないぞ!」

 四ツ柳が思わず声をあげる。レッドブランチスクールからは、不思議と行方不明者は出ていないと聞いていた。だから、脱出がしやすいように学園特有の絡繰りがあるのではないかと、淡い期待を抱いていたところがあったのだ。
 足場の悪い樹海は、足を引っかけて転べば終わりだ。走るのを辞めてしまえばあの怨嗟の声をあげる木々どもに捕まってしまうかもしれない。晦の手を引いて、いつの間にか止まっていた足を動かそうとしたところだった。

「……っ、う」

 恐怖に体をこわばらせ、晦はその場に立ち竦んでいた。
 樹木はその隙を見逃さず、太い枝を晦へと伸ばしていく。

「お前も異界にのまれるぞ、バカ! 立ち止まるな!」

 四ツ柳が力任せに晦をぐいと自身の方へ引き寄せた。晦はびくりと身体を震わせながら上を見上げて呻き声をあげる。

「……だ、あ、人が……」
「でもも、だってもねえ! 何も考えるな! 走れ! 生き残ることだけを考えろ!」

 泣きそうな顔を目の前にしながら、四ツ柳は焦りと苛立ちをぶつけるように大声を張り上げた。次第にぼろぼろと、頭上から雫が零れ落ちて来るのが見える。

「怖ぇえんだって言うなら、俺だけを見てろ」

「……ぅ、ぐ。ん」

 ぼろぼろと零れ落ちて来る涙を、晦はあいた片手の袖口でぬぐいながら四ツ柳の言葉に頷いた。
 返事を聞いて、四ツ柳は繋いだ手を強く握りしめて再び石畳を鳴らし始める。転んでしまわないように「足上げろ! 根っこ! 転ぶぞ!」と叫んでは、迫りくるものを走って避けて、二人して息を上げながら樹海を駆け抜けた。



  四. 見知らぬ遺跡


 一心不乱に森を駆けていた。辿り着く場所が何処だなんて考えもせずに、敵が追って来れない場所を探しては振りきることだけを考えていた。
 だからだろうか。学園の敷地内からは出てはいない筈なのに、見知らぬ場所へと抜け出てしまったのは。

「撒け、たか……?」

 四ツ柳は息を整えようと深呼吸をして、見覚えのない場所をぐるりと見渡す。いつのまにか、見たこともない石造りの遺跡の中へ迷い込んでいたようだった。およそどの時代の、どの地域のものとも似ていない、のっぺりと表面の白い石が積み上げられたたげの柱が、何本も土の地面に突き立っている。

「四ツ柳は、こういうとこに来たことはあるのか……?」

 四ツ柳が不思議そうに遺跡を眺めていると、晦が泣きはらした眼を重たそうに開きながら言葉を発した。

「異界に? 俺自身は踏み入ったことはねえよ。実際に見たのもはじめて」

「そうなのか……。随分しっかりしてるから、場馴れしてるな、と……」

「……慣れてんじゃなくて、それにのまれるのを覚悟してここに来ただけだから」

「のまれるのを覚悟して……?」

「ここはそういう学校。詳しく聞かれても、俺が答えられるものは少ないぜ?」

「そういう学校……」

 四ツ柳の言葉に、晦は思い当たる節がないわけでもないと難しげに考え込んで、それからしばらくして少し怒ったような表情を見せた。
 わかりやすい人だなあ、本当に何も知れる機会もなくここに雇われてしまったのだろう。と目を細めながらころころと表情を変える晦を四ツ柳は眺めていた。

 ゆっくり遺跡の中を巡っていると、「おあ」と素っ頓狂な声をあげて晦がよろめいた。どうやらて遺跡の柱にぶつかったようで、晦は地面に突き刺されて鎮座するそれを見上げながら、興味深そうにその周りをウロウロとしたかと思えば、時折立ち止まって首を傾げている。
 なにをしているんだ、と柱に目を凝らす晦に近づいて、四ツ柳も同じように柱を見上げた。見慣れない模様のようなものが刻まれている。

「ここに書いてるのが……さっきまでのことと似てる気がして」

 読み終えたらしい晦が、きゅっと四ツ柳の袖の裾を掴んだ。そうすると、みるみるうちに見慣れない模様と認識していたそれが可読性のあるものへと変化していく。いや、文字自体が変化したのではない。自分の認識がそれを文字として認識し始めたのだった。

「気味が悪ぃな」

 異界での原理はわかっていても、現実での常識を覆す経験にうすら寒いものを感じていた。
 柱には、晦が言った通り、今まで起こった出来事をそっくりなぞったような内容が記載されていた。虫の羽のようなものを持つ生き物の話、人のように歩き回る樹木の話。それ以外にも、様々な『聞いたことがあまりない物語』ばかりが記されていた。

「こっち側の話、なのか? だとすれば解読すれば異界の歩き方だったりがわかったり、しねえかな……。職員の人もここまで踏み入ったかどうかはわかんねえし……」

 ぶつぶつと考えを超えに出しながら柱の文字を読んでいると、コツ、コツ、と自分たち以外の足音が背後から聞こえ始めた。どうやらその音は四ツ柳だけではなく晦にも聞こえているようで、せわしなくあたりを見渡している。

「先生、隠れて」

 おどおどと惑う晦を、四ツ柳は隠れられそうな茂みに引き入れた。二人して息を殺し、向かってくる足音の主の姿をじっと見つめる。
 コツ、コツ。
 革靴の音を鳴らして森の奥から遺跡へと入ってきたのは、一人の若い男性だった。男はふらふらとどこか病的な足取りで、柱の方へと向かっていく。
 男に、見覚えがある。
 四ツ柳はつい最近詰め込んだばかりの学園の情報を頭の中からかき集めていた。あれは、レッドブランチスクールの創立者……汐海辰二ではないだろうか? 汐海は学園紹介パンフレットに載っていた若かりし姿そのままで自分たちの目の前にいる。恐らくご本人などではないだろう。だってこの学園は、半世紀以上前に創設されたものなのだから。
 亡霊か何かだろうか? 死んでからもお勤めとはご苦労なことだ……などと内心で悪態をつきながらも、四ツ柳の表情に強がるような表情は浮かばなかった。目の前の異常事態に、知らず知らずのうちに疲弊をしていたのだろう。ぎゅっと、変異した自分の片腕を抱きしめていた。

「黙って隠れてれば大丈夫だ。……たぶん」

 その様子を見た晦がぽんぽんと四ツ柳の背を撫でた。そうして、晦も目の前の男に目をやる。

「あの人、迷ってるのか? えっと、どっかで見たような……」

「バカ、生きた人間なわけねえだろ」

「ばかってなんだよ……ひどいな」

 息をするように、感嘆詞のように使われる小さな罵倒に、やはり晦はしゅんとして項垂れる。その様子に、気にする人なんだなあ、仕方ねえなぁと四ツ柳は小さく笑った。

「……そのワードNGなのな」

「いや、だって、いちおう、先生だし」

 そうやって二人がぼそぼそと会話をしている横で、柱を見終えたのだろう汐海が言葉を紡ぐ。森の奥に、語るべき相手がいるかのように。

「そう急くな、忘れられた古き狼よ。焦らずとも今、形を与えてやろう。記述を重ね、弱きものを束ね、偽りの肉体を与えよう。人々に忘れられた物語よ、ここに集い、新たな生を受けるが良い。かつて畏怖されし者、忘れられし者、森を統べる大いなる王、あるいは荒ぶる神と崇められし者―――赤枝の古狼よ」

 その言葉が終わると同時に、激しい風が吹き荒れる。
 風にまかれ、思わず二人して目を瞑る。

「おあ」

 素っ頓狂な晦の声が、また四ツ柳の耳に届いた。それと同時に、低く唸るような声と羽音がする。ゆっくりと瞑ってしまった目を開けてみれば、佇んでいた筈の汐海はもうどこにもいなかった。
 彼のかわりに、一匹の狼が佇んでいる。
 ただの狼ではない。ねじくれた樹木の毛皮と、虫のような羽を持つ、異形の狼だ。

「狼!?」

 思わす晦が声をあげて、引っ張り上げるように四ツ柳の手を引いた。目の前の狼を凝視したまま動かない四ツ柳に、晦の声からは恐怖よりも焦りの色に変化していた。

「四ツ柳、大丈夫か!?」

「……汐海辰二」

 ぽつりと、揺らぐ瞳を狼に向けながら、いや男が居た場所に向けながら四ツ柳は呟いた。「汐海……あ。学校の創立者、だっけ」どうして今そんなことを、と焦りながら尋ねる晦に、四ツ柳は答えることなく瞳を揺らす。
 怒りか絶望か、はたたまた失望だろうか。汐海という人間に対し、四ツ柳は黒々とした感情を向けていた。学園内の異界へ直接的に干渉し、目の前で異形の狼すらも生みだした。もしかしたらこの学園は汐海辰二が生み育てている異界で、生徒と教員はただの餌なのではないだろうか。そんな疑いさえもよぎって、四ツ柳は晦と手を繋いでいることも忘れて強く手を握りしめた。

 そうこうしているうちに、赤枝の古狼と呼ばれた巨大な怪物が高く高く咆哮あげる。その歪んだ悲しげな叫び声は、昨夜聞いた遠吠えにも似ている。あれは、この狼の呼ぶ声だったのだろう。

「はやく、にげ……」

 四ツ柳の手をぐいぐいと引っ張りながら、晦はあたりをきょろきょろと見渡す。どうやら異界からの脱出口を探しているようだった。

「えっと、たしか、ひびわれ、ってそんな言葉だけじゃわかんないか。あとは、光……。逃げ道、聞いたことがあるの忘れてた。こういうとこ、来るより逃げろって言われてたから、来たくもなかったし」

 逃げ切れるのだろうか。
 あの大きな獣に対して、得体の知れぬ汐海辰二が呼んだ怪物に、逃げ切って出られるのだろうか。自身の知識をかき集めても、異界の怪物に対抗する策を知り得ないことに対し、四ツ柳は酷く悲嘆に暮れていた。こんな局面での、ルールを知らない。

「ああ、大抵こういうのは場におけるルールがあるんだよな。逃げるにしても、撃退するにしても……」

 力なく言葉を返した四ツ柳に、晦がぐいと身体をつんのめらせてくってかかる。

「逃げるんだよ! どうしようもないことから逃げたっていいだろ!」

「わかってる、そんなの理解してる! わかった口きいて、いざ本番となりゃ逃げ方も何も知らねえじゃねんだって、俺は」

「わかってるなら! 今は気にするな! 知らないことなんか先生もいっぱいある!」

 大声で競うように言い合う。今まで聞いたことのないような晦の声量を浴びせられて、四ツ柳は少しばかり委縮する。そうやって、四ツ柳はようやく冷静さの端を掴めるような心地になって、今の自分はわからないことがあることに癇癪を起しているだけだと、深く深くため息を吐いていた。

「……気づいたことを教えろよ先生。アレから逃げるなら何処に向かえばいい?」

「四ツ柳の方が物知りだと思うぞ。ここに関しては特に」

 冷静さを取り戻そうと努める四ツ柳に、安心させようとしたのかはわからないが、晦は優しく微笑んだ。

「あれ、みえるか? さっきの男がいたところ、光ってる……気がする」

 晦は歯切れの悪い言葉を並べながら、遺跡の柱を指さした。四ツ柳から見ても薄ぼんやりと柱が光っているようには見えるが、そこが脱出口のようには思えない。
 どういうことだ? と四ツ柳が顔を向ければ、またしても多分……とあやふやな言葉を頭につけながら晦は答える。

「汐海の言葉は……あの狼の物語……だったんじゃないか? なんか、そんな気がする」

 つまるところ確証はないけれど、そんな気がするから狼が居る場所に突っ込んでいって、柱を確認する必要があるのだと晦は言っているのだ。

「っ……はは、あんなバケモンが居る中であれを調べろってか! 無茶な話を言ってくれるな!」

 あまりにも荒唐無稽、無茶苦茶な話で、四ツ柳は思わず声をあげて笑っていた。

「やんなきゃ逃げらんねえなら、どっちにしろ一緒か。いいぜ、やってやろうじゃん」

 挑発するように、自分たちの存在にはとうに気が付いているであろう狼と面と向かって、四ツ柳は拳を掌で打ち鳴らす。狼は四ツ柳のそれを合図とすると、唸り声をあげながら鋭い牙を携えた大きな口を開き、凄まじい勢いで二人に向かって飛びかからんと走りだした。

「あー怒ってる!」

「結末が無きゃ物語じゃねえもんな! その作戦であの犬に吠え面かかせようぜ!」

「もー! ばらばらに走って! その方が標的定めにくい!」

 先ほどとはうってかわって、晦は再び襲い来る狼への恐怖に半べそをかきながら駈け出した。四ツ柳はけらけらと笑いながら狼を誘うように、変異してふわふわの毛におおわれた手を大きく振った。

「気をつけろよ! その羽飛べるわけでもないんだろ!」

「おう! 任せろ! 犬とじゃれあうのは得意なんだよ!」

「あー危ないことするなよぉ、もー! 何かあったらどうするんだ!」

 内心はらはらとさせているのであろう晦の声を背に受けながら、四ツ柳は目論見通り標的を自分へと定めてくれたらしい狼と対峙する。どちらにせよ、柱に刻まれた文字は晦の手を繋いでいなければ四ツ柳には読むことは出来ないのだ。自分のほうが小回りも効くし、ここは適材適所だろう、と考えながら四ツ柳は声を張り上げる。

「先生! 西側の柱には狼の記述は無かった! たぶんそれ以外!」

 先ほどウロウロしていた間に読んだ内容を思い出して、必至に文字の解読を進めている晦と情報を共有する。晦が読む場所を絞ることが出来たのなら、囮の時間も少なくて済むはずだ。少しでも油断をすれば、頬すれすれに狼の爪が飛んでくる。

「こんなとこでくたばってる暇なんかねえんだよ」

 四ツ柳はそう呟きながら、異界に消えた母を思い出していた。待てども待てども、ついぞ自宅に戻ってくることはなかった母のことを。
 荒れに荒れて帰宅した父が外で暴力沙汰を起こし、拘置所で「異界」を知る人達に出会えていなければ、一体何が母の身に降りかかったのかを、いとぐちさえ知ることが出来なかった。
 ようやく、ここまで来たのだ。
 ここまで来て、道半ばで果てるわけには到底いかない。
 母を連れて帰り、父を元に戻すまでは。

「来いよ犬っころ! 相手間違えてんじゃねえぞ!」

 ふっと解読を続ける晦の方へ気を逸らした狼に向かって、四ツ柳は叫び、円形広場のようになった遺跡内を駆け抜ける。遺跡の柱以外には小さな瓦礫程度の障害物しか存在しないこの場で、少しでも狼の軌道を読み違えたらアウトだ。
 そう、張り詰めた空気の中で思った瞬間だった。
 狼が予想よりも一呼吸早く駈け出して四ツ柳との距離を詰める。
 誘導がうまくできていなかった。狼の突進を避けたとしても、狼が駆け抜ける先では晦が解読を進めている。咄嗟の出来事に四ツ柳の足は思うように動かず、その場に立ちすくむ。

「いーや、まだコレがある……!」

 四ツ柳は身につけていたベストを脱ぐと、異界の影響によって羽毛に包まれた腕にぐるりと巻く。
 逃げずに迎え撃とうと立ち尽くす人間に食らい付こうと狼は大口をあけてその牙を突き立て、四ツ柳はそれに対して衣服を巻いた腕を差し出した。

「食らいついてくれてどーも。即席のアームカバーの味はどうよ?」

 四ツ柳ははっ、と強がる表情を狼に向けるが、肉に食い込む牙が痛くないわけでもない。ここで潮時といきたかった。
 背後の晦に「出口見つけられたかよ、先生!」と叫べば、慌てた声で「ここはその、狼の物語だから、そいつが帰れば戻れるはず!」と返って来た。

「帰るって何処にだよ、森にお帰りってか!?」

 四ツ柳は狼を眼前に捉えながら、じりと一歩後ずさる。囮になっている間は遺跡内を走り続けていたために、息も絶え絶えだった。

「名前、狼の名前! それがあれば」

 あーだとか、うーだとか求めている記述を探して漏らし続けていた晦の唸り声がぴたりと止む。
 すぅと息を吸う音が不思議と耳元まで聞こえて来たかと思うと、まるで絵本を読み上げるかのように晦は物語の結末を声に出す。

「『結局、彼は誰からも忘れられてしまいました。 ただ、もう一度だけ、自分の名前を呼んで欲しくて、それだけのために生きながらえてきた彼の生に意味はなかったのです。 もはや、レッドブランチという、彼の本当の名を知るものはどこにもいないのでした』」

 物語を読み終えた晦は、狼の牙を一心に受け止めて潰されぬように踏ん張る四ツ柳へ叫ぶ。

「レッドブランチ! ……そいつは、寂しかっただけなんだ。忘れられていたことが。だから……その名呼べばきっと大丈夫だ」

 晦の叫び声に応えるように、狼の瞳がきらりと光を反射した。まるで、晦の言葉を肯定するかのように。
 唸り声を上げ腕に噛み付いていた狼は、ゆっくりと顎の力を抜いていく。

「レッドブランチ……学校の名前の……由来なのかよ、お前」

 どうして、という思いがこみ上げて、四ツ柳も狼と共に肩の力を抜く。
 狼はじっと真っ黒く湿った瞳で四ツ柳をみてから、ざらりと腕をなめた。幸いにも噛みつかれていた腕は羽毛に守られ、腕自体に傷は届いてはいなかった。

「……お前は、異界生まれか? それとも迷い込んだ方か? 汐海は、お前とどういう関係で……。異界の生き物と関わるって、そういう、ことなのか?」

 もし今この状況が、汐海が異界に迷い込んだレッドブランチの有様に同情して連れ帰ろうと試みた結果だったなんて言われれば、母を連れ帰ることは将来的に汐海がやっていることをなぞることにならないだろうか。そんな不安が四ツ柳の頭をよぎる。
 問いかけてもレッドブランチは言葉を返すことはなく、ただ四ツ柳の腕を謝罪の言葉とかえるように舐め続けている。
 そうしていると、すっ飛ぶようにして晦が一人と一匹の元へ駆けてくる。

「怪我は!?」

「なんともねえよ。不幸中の幸いにも、コレのおかげで」

「噛まれてた!?腕までは……ささってないか」

 四ツ柳が異界化してしまった腕を見せるように胸元の高さまで上げれば、晦は心配そうに腕を撫でて確認をしていく。 たいした怪我がないことするとが確認できると晦は安堵したような溜息をついて、狼から距離をとるように四ツ柳を引っ張ってから狼へちらりと視線をやった。狼へ向けるその視線は、僅かに同情の色が見える。

「狼の伝承自体は、元々あるものみたいだった。それに、色んな……誰もが忘れたような昔話だったり伝承が、ここで寄せ集められてしまったみたいだ。……だから、この狼、の元になった話、といえばいいのか? 本来は、こんな姿ではないはず……」

「元々あるもの……。もしかしたらコイツも昔は生きていた狼だったのかな」

「かもしれない……昔話なら。この森の主としていたのかも」

 晦にそう答えられ、ぎゅっと胸が張り裂けそうになって、四ツ柳は俯き唇を噛む。
 元々はここに産まれ落ちて暮らしていた狼だったのだろうか。誰かと共に歩んだ生があって、偶々この異界に紛れ込んでしまったのだろうか。もう一度だけ名を呼んでくれる誰かを、どれ程の時間待ち続けていたのだろうか。
 想像するだに苦しい話だ。

「!? ど、どっか痛いのか?」

「は!? え、いや、何処も痛くねえ、けど!? 何……?」

 突然しゃがみこんで顔を覗き込んだ晦に、四ツ柳は驚いて身体をややのけぞらせる。晦はううんと悩んだような表情を浮かべながら「痛そうな顔した気がした」と答えたかと思うと「ちょっと待ってろ」と変異した四ツ柳の腕を再度触れ始める。
 少しばかり困惑した表情になりながら「え、ああ……うん」と生返事をして、四ツ柳は晦をさせるがままにする。心配してくれているのだろうか、としか頭が回らなかった。目の前の狼は、先程興奮していた様子とはうってかわって大人しく四ツ柳の頬を舐めていた。
 不意に、狼に舐められた頬からぼろぼろと覆っていた羽毛が剥がれだす。それは彼が頬を舐めとったから羽毛が抜け落ちたのではない。あたかもそこにあるべきではないと叫ぶように、するすると糸が解けるように消えて落ちていく。人としておかしなものが無くなっていく感覚。
 どういうことだと四ツ柳が唖然としながら腕を眺めていると、晦が「……よし。大丈夫そうだな」と呟いた。ぽかんとしながら、四ツ柳は晦を見上げる。

「何……したんだ……?」

「もう帰れるってことだろ」

 答えになっていない言葉を返して晦は四ツ柳に手を伸ばした。表情は笑みをたたえるままで、はぐらかしているのか意図がつかみにくい。

「帰れるからって、すぐ治るもんじゃ……」

 四ツ柳はそこまで言葉に出して、はっとする。異界化は病気のようなもので、異界に対する抵抗力があればあるほど治りやすいのだという。けれど異界から出ていない今、突然治るのもおかしなことだった。
 晦が何かをしたのでなければ。

「あんた、何したんだよ! 別に、見た目が変わったくらいどうってことないって! 俺は……!」

 こうなってしまった時に言ったじゃないかと、四ツ柳は責めようと晦の胸ぐらを掴みかかって、助けられた分際でそうする立場にはないと言葉は尻すぼみになる。

「ごめん……ありがとう」

 四ツ柳は俯いて、ただただそれだけを呟く。

「お礼はいうのはこっちの方だって! 四ツ柳がいなかったら、帰ってこれなかったよ。ありがとな」

 ぽんぽんと、四ツ柳の背中を軽く叩いて晦は笑顔のままそう言った。「ほら、動きづらいだろうしと思って! 羽もかわいかったけどな?」などとズレたフォローをするのは相変わらずこの男らしいと、四ツ柳も僅かに笑みをこぼす。

「やっぱ先生、バカでしょ」

 眉を下げながらも広角をあげようとする四ツ柳へ、晦は淡々と微笑む。

「ひどいなぁ」

 四ツ柳は自分の周囲だけが、ぴしゃりと空気が凍ってしまったような感覚に陥った。
 ばかってなんだよって、反発して怒ったりしょげたりしてくれよ。そう四ツ柳が思っても、晦は不思議そうにこちらを見つめるだけだった。ころころと表情を変えていた晦はもう此処には居なくて、四ツ柳の腕の代わりに晦は何かを異界へ差し出してしまったのだろう。喪わせてしまったという罪悪感に、四ツ柳は怒ることも泣くことも出来なかった。

「……覚悟、足りてなかったんだろうな」


 いつのまにか、二人に恭順していた古狼は姿を消していた。森の奥深くに帰っていったのだろうか。
 失意の中で異界のひび割れに足を踏み入れれば、その先はレッドブランチスクールの元あるべき姿が待っていた。石畳もたどり着いた宿舎も、何もかも全てが異変の起こる前の日常だ。異界に巻き込まれた二人を除いて。
 何を奪われたのかもわからないまま、初めて遭遇した異界は四ツ柳達の前から姿を消したのだった。



  五. 紳士と淑女


 奇妙な森での体験を経て数日後。
 あれから、周囲の人間の声が聞き取れなくなることも、奇妙な虫や木々が現れることもない。狼の遠吠えも、聞こえない。ただ、四ツ柳だけが晦の態度にどこかよそよそしいような違和感を覚えていた。

 HRの終了の合図を告げる担任の声と共に駆け出していく。そのまま二階にある保健室へ駆け込むでもなく、広々としたレッドブランチスクールの敷地内をぐるりと一周する。街とも呼ばれるくらい広大なこの敷地は、一周だとしても全力疾走するだけで相当な体力を消耗する。それがまあちょうどいいと、四ツ柳は毎日の習慣の一つにこれを加えたのだった。
 スポーツタオルを汗ばむ首に巻いて、保健室の扉をがらがらと音を立てて開ける。中には書類整理をしている様子の晦が見えた。

「せんせ~飴もらいに来たよ~っと」

「ん。また飴をたかりに……」

「まあ、事実たかってんだけども、表現よ……」

 そうと言いつつも四ツ柳の声が聞こえたと同時に晦は用意していた飴の瓶を取り出して、それから四ツ柳の首元を注視して、嬉しそうにする。

「お、部活に入ったのか?」

「んー? 部活は色々しがらみありすぎて頻繁にココ来れないからパス」

「そうか。運動自体は健康にいいからな!」

「別に、その為じゃねえけど……」

 にこにことしながら、晦は瓶から取り出した飴を四ツ柳に渡していく。開封されて詰められたばかりらしいその瓶の中には、前回貰ったのど飴ではなく、ハッカ飴がより多くぎっちりと詰められていた。

「飴、余りもんだとか、前に置いてたやつじゃねえのな。わざわざ買ってくれてんの?」

「ん。売店みてたらいろいろ種類があったから、違うもんなんだなと」

「へ~、ふ~ん。ハッカって割と好き嫌い別れる上に、先生好きじゃないのに見てくれてんだ?」

「人の好きだって言ってたもの、なんか見てたら思い出さないか? そういえば、好きだって言ってたな〜って」

「先生、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん?」

 四ツ柳は貰った飴を口の中に放り込み、からかうように晦へそう言った。

「ん。そうだな。嫌いじゃないぞ」

 この人なら、慌てたようなばつが悪いような顔をしてすぐさま話題を逸らすだろう、なんて四ツ柳の期待とは裏腹に、晦はそう、当り障りのない言葉を紡いだ。やっぱり何かがおかしいままなのではないだろうか。四ツ柳はころころと飴を口の中で転がしながら、晦に顔を近づけてじっと見る。

「……違うんだよなぁ」

「……ん!? 違う? まずいハッカだったか?」

「そういうおとぼけ発言は相変わらずだけどさぁ……。前だったら、慌てた時はバカみたいに顔に出てたじゃん」

 思った以上に顔が近かったのか、晦は驚いて少しばかり目を開いて仰け反った。それでも以前より随分と読みにくい表情の変化に、どこまでやったら元の晦先生に戻ってくれるかなと四ツ柳は思案する。

「ま、良くはないけど良いか。あんたの中で何がどうなったかは知らないけど、それでどうでもいいって諦める俺じゃねえからな」

 これから異界を調べるにあたって巻き込む人間との関わり方を、どう向い合っていけばいいかは未だ決めきれないけれど。自分が関わって変えてしまったことに目を逸らさない、それだけは持っておいて然るべきだろう……等と四ツ柳は考えながら、「そんな顔にでてたか? まったく、俺は四ツ柳だけの先生でもないからな、いそがし」と答える晦の顎に片手を添えて、軽く引く。

「あの日何をしたのか、忘れたとは言わせないからな。覚悟しとけよ、あんたが俺のレディだ」

 レッドブランチスクールには、どうにも馴染み難い最大の伝統文化がある。生徒同士が自主的にそれぞれをレディ、ナイトと呼称してコンビを組む……いわゆる二人組をつくってね、だ。規則でもなんでもないが、伝統として染み付いたこの制度は殆どの生徒が利用している。男子生徒の割合が多いものだから、男のレディ役だって珍しくない。
 ただ果たして、生徒と先生のコンビはどうだろうか。
 クラスではもう相手の居ない人が居ないんだよ先生、なんて四ツ柳が同情をひくようにこぼして、じゃあ先生となるか!という晦の言葉を引き出したのは入学してほんの2、3日の頃だったか。異界の調査の際に利用しやすそうだと踏んで仕込んでいただけだったが、今で言葉にこめる意味が少しだけ違う、気がする。

「四ツ柳。そういうのはやる相手を選びなさい」

 ぴしゃりと叱るように飛んできた言葉に、ぱっと四ツ柳は手を離す。ひと泊おいてから、晦は驚いたのかガタガタと椅子とともに後退していった。転びそうで危なっかしい。

「もー! 早く学校に馴染んだらどうだ!?」

「あーっはっは! やっと変わった変わった。あんた、そうやってコロコロ表情変わるほうが良いよ」

「はあーもう、大人をあまりからかうものじゃないぞ!」

 ようやく百面相をしていた頃の表情が返って来たようで、四ツ柳は満足気に大きく笑って椅子に腰掛けた。晦もむっとした表情を浮かべた後に息をつきながら、椅子と己の姿勢を戻して四ツ柳と向かい合う。

「……あれから、怪我とか調子悪かったりはないのか?」

「別に、俺はなーんも問題ないよ。あんたのおかげでね。学校に馴染んでない訳じゃないし、馬鹿やってる友達が居ないわけでもないよ。俺がココを選んで来てるだけ」

 やや心配そうに見つめる晦の気を逸らすように、サボるのにはうってつけだしな〜と四ツ柳は空調に顔を向ける。ほとんど一人でいる様子しか見せていないのだから、心配するのも尤もなのだろう。
 実際には学校に馴染めているとは言えないのだが、心から馴染む気はないのだから嘘をつくほかどうしようもない。異界によってある日別人のようになってしまう可能性のある環境で、友達など作りたくもなかった。

「ん。そうなのか。そっか、友達いるのか。よかったよかった」

 勘違いをしてくれているらしい晦に対して、四ツ柳は罪悪感を覚えつつもほっとする。まぁ馬鹿をやれるクラスメイトは幾人かいるのだからあながち嘘でもないだろう……と思いながら四ツ柳は片目を瞑った。

「……。つまりこれはあれか、ここには、サボりに来てるのか……」

「なんだよ、ちゃんと今んとこ休み時間と放課後に来てるだろ。今んとこ」

 しゅんと項垂れた晦を横目に、四ツ柳は飴の瓶に手を伸ばした。するりと長い腕が横から伸びて、四ツ柳が手にするはずだった飴の瓶が攫われていく。

「こら。すぐなくなるだろ」

「ちぇっ」

 口を尖らせながらも、表情を絶え間なく変えていく晦の様子に四ツ柳は表情を綻ばせる。そんな四ツ柳の様子を見てなのか晦は考えを巡らせつつ、ざらざらと瓶から飴を取り出していく。

「まあいいか、その友達にもよろしくな」

 そうして、いつもより多めの飴を四ツ柳の手に置いた。ハッカ飴が苦手な人にもあげられるようにとフルーツ味ののど飴も混じっている。

「……お人好し。俺以外にあげなくていーよ飴なんか」

 四ツ柳は先ほどついた嘘が少しばかり心苦しくなってきたものだから、それを不機嫌そうに受け取りながらポケットに仕舞う。寮にいる顔見知りにでもあげることにしようと、受け取ってくれそうな人の顔を思い浮かべた。

「そういう、子供らしいとこもあるんだけどなぁ」

 微笑ましくこちらを見て呟く晦に、四ツ柳はなんだよと反抗的な目を向ける。やはりわかりやすく少し慌てた表情を浮かべるものだから、睨む時間も程なくして笑いに変わっていった。


 変わらない雑談をよそに、次第に窓の外が染まっていく。そろそろ、日も落ちるだろう。
 こうして、日常は戻ってきた。
 学園生活を送る生徒達の中には奇妙な症状を見せる者たちも多くいるが……今の所、大きな問題はみせない。この学園は、現実世界と異界の境界が曖昧なのだろう。

 誰もいない夜の森に、狼の遠吠えが聞こえた気がした。



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GM:まよこ/シフター:晦端午、PL:ゆかり/バインダー:四ツ柳諒
リプレイ小説書き起こし・扉絵イラスト:ゆかり
扉絵に使用したロゴ:『アンサング・デュエット』の公式ファンキットより。(C)Fuyu Takizato / Draconian (C)KADOKAWA

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