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解体配信
※本作品にはスプラッター要素がございます。18才以下の方及び、苦手な方は閲覧をご遠慮ください
一.解体配信の噂
暗雲が空いっぱいに立ち込め、ぽつぽつと窓を叩く音も耳に馴染んで久しい頃。
レッドブランチスクールの学生たちは、授業合間の休み時間を気ままに過ごしているところだった。
学園の生徒である四ツ柳もまた例外ではない。
机の上に次の授業の教材を広げていると、クラスメイトがなぁなぁと声をかけて来る。
「四ツ柳は知ってる? 人が解体される配信があるって噂」
唐突だなぁと思いながら、四ツ柳は話しかけて来たクラスメイトを見る。
西村亮太。彼はオカルトをこよなく愛しているようで、異界に関する情報収集になるかと話を幾度か聞いているうちに、四ツ柳のことをオカルト好き仲間と認定したらしい。
学園内で流れている噂をかき集めては、嬉しそうに報告をしてくるのだ。やれ深夜徘徊をする女の幽霊を見ただとか、レッドブランチスクールの森の中には木の妖精が住んでいるのだとか。
「なんだよそれ。趣味わりーもん観てるな」
スプラッタ系の話を西村の口から聞くのは初めてだった気がする。本当にオカルト話ならなんでも好きなんだなと思いながら「お前、そういうの好きなの?」と顔をしかめて見せた。
「いや、実際見たことあるわけじゃないけどさぁ。なんか最近流行ってる? ぽい? よく聞くんだよなー」
流石に好き好んで見に行くわけでは無いと、西村は胸の前で両手をぶんぶんと横に振る。そこそこに親しくはあるクラスメイトが18禁映像を進んで観に行く性質ではないらしいことには安堵する。
「他のクラスのやつから聞いたんだけどさ」
「怪談話の典型的な広がり方って奴だな」
「聞いたことない? ネットでも一部では騒がれてるって」
「解体される配信だっけ? そんなもんすぐ削除されそうな内容じゃねーか」
「そうそう。実物は残ってないって」
話に耳を傾けてくれることが嬉しいのか、西村は隣のクラスで聞いたという話を嬉々として説明し始める。
「廃墟みたいなとこで、誰かに助けを求める人が少しづつ削られてく映像が配信されてる時があるんだと。配信画面はそいつ自身のスマホで取られてる映像で、配信の記録自体は残ってない。ライブでしか見られないらしいな」
ふんふん、と興奮した様子で西村は配信内容を言葉にする。又聞きという性質のせいか、配信の内容自体はひどく曖昧だ。
「ふぅん……。ライブなら設定しないと残んないんだっけ……?」
自分から配信したことはないが、サッカーのライブ中継がアーカイブされた映像は観たことがあったなと四ツ柳は思い出す。
西村は続けて、それでな!と身を乗り出して四ツ柳の机を叩き、きらきらとした目で訴えかける。
「で、配信を見たことあるやつがその映像から場所を特定したみたいで、その住所がネットに晒されてるんだよ」
「住所特定って、すげーやつもいるもんだ」
「そこがこの学校の近くらしい。で、ネットのその話題に気がついたやつが騒いでたらそこそこ話が広まったみたいだな」
「あ~ナルホドね、確かにココの近くってなったら騒ぐか……」
由緒正しいお坊ちゃまお嬢様学校であるレッドブランチスクールではあるが、なにぶん外出許可が出難い。
外界と切り離されがちなこの環境では、一部の刺激に飢えた生徒たちがその手の話題に飛びつくのも道理だろう。
「そーいうの好きなやつはどこにでもいるよなー。すっかり肝試しスポットだよ」
「そこ、誰か行ったって話とかあった?」
この学園の周囲の話となれば、警戒すべき点が一つある。この土地は、異界に通じやすいのだ。
「あ〜面白半分に行った人は帰ってこないって噂もある。けど、大体の奴らは、何もなかったって帰ってきてるらしい。部活の先輩も行ったとか言ってた」
「ま、全部噂だけどね」と西村はおどけて言った。その先輩が本当に行ったのかどうかすらも怪しい情報だということだろう。
「フツーに行けるんじゃん……。配信映像は、その場所をモデルにしてるだけだったりしてな」
「かもねー。自主制作映画の映像それっぽく流してるだけとか」
「警察出動してないならそうなんじゃないか?」
時計をちらりとみると、授業開始5分前にさしかかっていた。意気揚々としゃべり続けようとする西村に「ていうかさ」と先ほどまで開いていた英単語帳を、とんとんと指さして見せる。
「めちゃくちゃのんびりしてるけど、次の小テスト大丈夫なわけ?」
「うわ! そーだ! まだ全然覚えてね〜」
「範囲、こっからここまでだからな」
該当ページを覗き込み、慌てて自分の席に戻っていく西村を見送る。
噂の話、異界が発生してるとマズいから、財団に報告書出しておくかな……と考えながら、四ツ柳は未だ雨音の激しい窓の外を眺めていた。
二.肝試しスポットの調査依頼
四ツ柳が三日月財団へ解体配信の噂についての報告書を出し、数日経った頃。
学園の事務局から支援機構から手紙が来ていると言われて渡された封筒の中に、三日月財団から直接的な異界調査の依頼書が入っていた。
なんでも、近頃学校内で流行っている解体配信の噂の現場が本当にこの学校の近くにあるという。西村の話は事実だったようだ。
異界の可能性があるため、報告にあったシフターと共に調査へ向かって欲しいとの旨が記載されていた。
最難関であろう外出許可は、四ツ柳と同じように学園へ潜入しているらしい三日月財団のレッドブランチスクール対策組織——慧眼同盟のメンバーが取り計らって発行してくれるようだ。
トイレの個室の中で報告書を読み終わり、四ツ柳は小さくガッツポーズをする。三日月財団からの直接的な依頼はこれがはじめてであり、今までは遭遇した出来事や真偽の不確かな噂を逐一報告書として提出していたのみであった。
異界から持ち帰ったアーティファクト——遺物と呼ばれるモノを提出したこともあったが、こちらもたまたま手に入ったものを送っただけのこと。
依頼を送ってもらえるだけの信頼は勝ち取れたんだなと、四ツ柳は一人嬉しく感じていた。
そうと決まれば、調査に必要不可欠な人物に協力を依頼しに行かなければならない。
バタンとトイレの扉を開け、荷物を肩に背負い、保健室へと一直線に走りだす。
「せんせー!」
嬉しさを携えたまま、四ツ柳は勢いよく保健室の扉を開けた。
「お、どーした。なにかいいことでもあったのか?」
机に向かって仕事をしていたらしい晦が顔を上げる。
四ツ柳は「ねーねー」と声を弾ませながら、教職員用の机に手をついて前のめりに晦に詰め寄った。
「こんどの土日のどこか、時間くれない? 先生に手伝って欲しいことがあってさ」
「手伝い? いいぞ。先生、勉強はそこまで教えられないと思うんだけど」
「それは専科の先生に聞きに行くって」
そうじゃなくてと切り出そうとして、晦がこういった手の話題が苦手だったことを思い出す。頼んで受けてもらわねば困るのだけれど、少しばかり気が引ける。
「あー、先生こういうの苦手だった気はするんだけど」
「ん? 苦手……? あ、この前話してた異界の調査ってやつか?」
「学校の近くに異界かもしれない場所があってさ、そこ調べてきて欲しいって依頼が来てんだ」
「あー……」
話し出せば、晦の目は泳いでいく。
今回は自ら危ない場所に一緒に行って欲しいと頼むわけだから仕方がないよなと四ツ柳は頬をかいて続ける。
「学校中でも噂になってる話なんだけど……。本当に異界だったら肝試しに行ってるらしい生徒も危ないし、かといって俺一人じゃ異界かどうかもわかんねーし」
お願いします!と言って四ツ柳は顔の前に手を合わせてから頭を下げる。
慌てて晦は向き直り、「ああ、もう。わかったわかった!」と承諾をする。
「そんな危なそうなところに一人で行かせるわけにはいかないからな!」
「へへ、サンキュー先生」
「まあ、頼ってくれるのは嬉しいよ」
本当は、生徒をダシにすれば晦はついて来てくれるということはわかっていた。申し訳ないなと思いながらも、四ツ柳は上機嫌で保健室にある椅子に腰かけた。
「噂ってあれか……肝試ししてる生徒もいるみたいだし、気になって一応先生も調べてみたんだよな」
おっかなびっくりという感じで、晦は調べていたという内容をぽつぽつと話し始める。
噂になっている廃墟は、郊外の森の奥にある元病院。
配信に映っていた背景に、病室のようなベッドやカーテンレール、医療器具が映っていたこと。面白半分に廃墟探索をしていた人間が、見たことのある風景だと特定に至ったのだそうだ。
戦後しばらくして潰れ、放置されていた医療施設であったが、戦時中は旧日本軍の管理下に置かれ重症の兵士たちの治療にあたっていたという。
捕虜も集めて収監していたという噂話もあり、戦時下にあったこの病院では、情報収集のために捕虜に拷問を行っていたという話も目についたそうだ。
「まあ、よくある都市伝説の類だとは思うんだけど」
調べていた最中のことを思い出して怖くなったのか、晦が手を合わせてもぞもぞとすり合わせている。
「へ~そんな話があったのか。東京の地下には~とかも似たような噂で聞いたことあるわ。まさかそういう系の場所だったとは思いもよらなかったな……」
「ちょっと検索してみただけだけどな」
「事前情報あると助かる。まかり間違って異界に踏み込んでも、安全に抜けられる可能性上がるし」
今までの異界での出来事を思い出し、四ツ柳は「まー、先生となら大丈夫そうな気がするけどさ」と安心した心地で呟いた。
三日月財団から送られて来た資料を鞄の中から取り出して廃墟の位置情報を確認する。
晦の話にあった通り、レッドブランチスクールから少し離れた森の中に、その廃墟はぽつんと建っている。
学校の手前にあるバス乗り場から数駅バスで揺られし、そこから徒歩で向かう形になるだろう。
「廃墟の場所はわかるから……。バス乗ってく?」
「遠いのか? 肝試し行けるくらいだから、そうでもないか」
晦が四ツ柳の持つ資料を覗き込んで「おとなしくバスで行こう」と頷いた。すべて徒歩で向かうには、やや厳しい距離だったらしい。
そうこう話していると、保健室のドアの外からかりかりと音がすることに気がついた。
四ツ柳が慌てて椅子から立ち上がり、そろりと扉をあけると、黒い塊が室内へと入って来る。にゃあ、と鳴いて四ツ柳の足元をするする回った。
「人に見つかったら危ないだろお前~~」
「あはは。匿ってるうちに校舎内での見つからない歩き方、覚えたんだろうな」
「黒いから見つかりにくそうではあるよな」
晦が机の引き出しをガラガラと開けて、猫用のチューブおやつを取り出して来る。わかってはいたが、甘やかしすぎだ。
食べ物が貰えるとわかって来ているのだろう、するっと晦の足元にまとわりついていた。
「四ツ柳もジジにあげてみるか?」
「んーや、いいよ。それより俺にもコレちょーだい」
猫用おやつではなく、四ツ柳は棚に仕舞われた飴の瓶を指す。
「いいぞ。ちゃんと補充してある」
そうしていつもと変わりない……いや、一匹の仲間を増やして保健室での平和な時間を過ごしていく。
晦と出掛ける約束をとりつけることの出来た日は、幸いにも洗濯日和であると予報されていた。
三.廃墟へ
晴れ渡る空の下、朝の涼しい風に吹かれながら、四ツ柳と晦は学園前のバス停でバスを待っていた。足元には見送りに来たのか、ジジがうろうろとうろついている。
書類にあった通り慧眼同盟の誰かが申請を工面してくれたのか、最難関と思われた四ツ柳の外出許可はすんなりととることが出来た。書類上では、大きな街の病院に晦と向かうことになっている。
1時間に1本くらいの感覚でやって来るレッドブランチスクール前のバスがやってきた。いざ乗り込もうとすると、ジジがじっと二人を見つめる。
「……連れてけるか?」
「連れてくのか? まあ、異界慣れしてそうだったしなぁ」
連れて行って欲しそうなジジを見ながら、前回すげー助けて貰ったしなぁと四ツ柳は晦と顔を見合わせる。晦が背負っていたリュックのジッパーを開け、「おいで」とジジを呼びこんだ。
するりと黒い塊はリュックの中に飛び入った。鞄の上をあけて抱えていれば、じっと静かにその場に収まってくれている。
「向こう行ったら喋れるかもしれねーしな。鞄の中に危ないものあったら預かるよ」
カンカンとバスの階段を登って、車内の椅子に座る。
「危ないのは大丈夫かな……はい。飲み物。水分しっかりとって」
「ん、さんきゅ」
晦にミニペットボトルを渡される。晦が持ってきたリュックの中を覗けば、ジジが座る下に救急セット箱が仕舞われているのがわかる。
「廃墟、どれくらいの大きさなんだろうな」
ガタゴトと揺れるバスに乗って、四ツ柳はまだ見ぬ廃墟を思って外を見る。レッドブランチスクールに入学して以来、市街地を眺めたのは初めてだった。
学園を囲んでいた森を抜け、その先にあった市街地を通り抜け、やがて学園の周囲の木とは少しばかり様相の違う、管理の行き届いていない鬱蒼とした森が見えてくる。
森のすぐ近くの停留所でバスを降り、雑草の生えた道をしばらく歩く。
まだ日の高い時間だと言うのに、木々の落とす影に薄暗さを感じる。
やがて、錆びた大きな門が見えてくる。門の向こうには空き地が広がり、奥には黒く重い印象の建物が見えた。
ひび割れた地面に、雑草がまばらに生えた空き地をざくざくと歩く。
近づくにつれ、建物の全貌が見えてきた。三階建てのそこそこに規模の大きな建物だ。
「病院って聞いてたからそこそこデカイのは想像してたけど、三階建てか」
二人して大きな建物を見上げる。建物を眺めていた晦は「わあ」と見るからに心霊スポットの様相をした建物に気落ちした声を出していた。
リュックから出され、晦に抱えられていたジジが観念しなさいよと言うように「なぁお」と短く鳴いた。
進むたびに建物の周囲には瓦礫が増えていく。
玄関の前までたどり着けば、朽ちて読めなくなった看板が落ちている。かろうじて、『医院』の文字が見えた。
歩きづらいが、建物の入口までは行けそうだ。心霊スポットと言われているだけあり、人が訪れているのだろう。雑草が慣らされたような道が所々にあった。
「入るのも一苦労だな、先生ついてこれてる? 何か変わった様子は?」
「あ、うん。なんとか……」
きょろきょろと普段よりも増して落ち着きのない晦だが、場所の雰囲気に怯えているだけで異界入りした様子はないようだ。
ジジが晦を見ながら「にゃあ」と意味もなく鳴き、驚いた晦が「な、わ! ……もう!」と憤慨している声が背後から聞こえた。
「日は高い時間なんだから、幽霊とかはでねーって。たぶん」
建物の玄関に鍵はかかっていないようだ。それどころか、壊れて閉じきれなくなったのか薄く開いている。
電気も通っていない建物内は、窓も面していない部屋は歩くのに困難なほどに視界が悪かった。
「つっても懐中電灯が必要な程には暗いな。遮光されてるとこんなに暗いのか」
四ツ柳は鞄の中から懐中電灯を取り出し、ぱっとあたりを照らして行く。
パキリと割れたガラスを踏みしめ、玄関をくぐる。病院内の壁は剥がれ落ちてむき出しの瓦礫から鉄骨が見え、ひび割れた床の端には雑草が生えている。室内の殆どの扉は外れ、はめられていたガラスは砕けていた。
最初に踏み込んだのは病院の待合室だろうか。くまなくあたりを照らして居れば、大部分がかすれて読めなくなっている案内図が落ちていることに気がついた。
「お、案内図めっけ。一応写真撮っとくか」
スマホを取り出して写真を撮る。フラッシュが焚かれて、かすれた案内図がスマホの中に収められた。
案内図を照らしてよく見れば、一階は広い待合室と受付、ナースステーション。さらに診察室が並び、いくつかの病室と、一番奥には手術室がある。
二階は主に入院患者用の階らしい、病室ばかりがある。三階にも少し広めの病室が並び、院長室や会議室スタッフの部屋が続いていた。
「なにかあったのか」
「ん? 案内板だよ。広いから撮っとこうと思って」
口数少なくおどおどとついてくる晦を見て、やっぱり無理なお願いしたかなぁと四ツ柳は申し訳なく笑った。
「……く、だ、大丈夫だから……!」
「へーへー、まあ無理は禁物ってことで」
心配されたことが恥ずかしかったのか何なのか、気を取り直すように晦はズンズンと前に進んでいく。
中に入った頃にはジジも大人しく晦の腕の中に収まっていた。守ろうとしてくれているのかもしれない。
いつ何時、異界に紛れ込むかわからねえし。離れないようにしねえとな、と四ツ柳は先に進む晦の服の袖を掴んで隣に並ぶ。
そろそろと人気のない朽ちた建物の中を二人と一匹は歩いていく。
かけられている病室のプレートはどれも外れかかり、どの病室も泥に塗れた不衛生なベット、壊れて使えなくなった器材や、錆びて使えなくなった医療器具が散乱していた。
時折物音がしてそちらをみれば、がさがさと何かが走り去っていく気配がする……が、こんな山奥だ。根城にしている動物くらいいるだろう。
「普通の廃病院って感じだな」
「そう、みたいだな。噂は噂……ってことかな」
薄暗い建物の中、自分たちの歩く足音だけが反響している。
どの部屋にも人のいる気配はない。
気味の悪い雰囲気には満ちていたが、解体されている人間も撮影されている場面にも出くわすことはなかった。
ネットによくある噂話だったのだろう。
「ま、何もないならそれが一番いいけどな」
「廃墟なんてそれだけで危ないから、あんまり肝試しでも来てほしくないけどなあ」
「まー、そこらへんの生徒は無許可で抜け出した罰として指導しといてよ、センセー?」
「たしかに、それが一番いいかも知れないな」
何事もなかったのだと、ほっと一息ついて二人して笑い合う。
噂は噂。三日月財団の取り越し苦労だったのだろう。
依頼を異界の調査としてこなせなかったことは残念ではあるが、危険が無かったのならそれで良いと、帰るために玄関へと足を向けた。
四.配信開始
階段を降りて、あと少しで入り口というところまで来た時だった。
ふいに手にしていた懐中電灯が急に消えた。
電気も通わない廃墟の中で、黒い塊であるジジどころか隣にいる晦の姿も見えない闇が広がった。
「あれ、おかしいな? 買ったばっかなのに……」
この廃墟探索の為に買ったんだぞと懐中電灯を叩くが、うんともすんとも言わない。
仕方なくスマホを取り出してボタンを押すが、こちらもつかなかった。何かがおかしい。
暗がりの中で、にゃあ、と猫が鳴く声がする。ジジは傍にいるようだが、晦の声は一つも聞こえない。
すっと冷たい汗が落ちて行った。
やがて、チカチカと懐中電灯が息を吹き返す。
するりと足元によってくる柔らかな感触がする。ジジだ。
晦に抱かれていた筈のジジが、どうして歩いているんだろうか。
「先生? おい、先生どこだよ……?」
慌てながらあたりを照らしても、晦の姿はどこにも見当たらない。怖がって隅にでも蹲っていないかと執拗に付近を照らすが、どこにも気配はなかった。
ブー、ブーッと、先ほどまで沈黙していたスマホが鳴る。
なんだとスマホを覗いてみれば、SNSによる一件の通知。晦からのメッセージだ。
おかしい。何もかもがおかしいのだ。
こんな状況で晦が自主的に離れるわけが無い。
それに、四ツ柳は晦の連絡先を一つも知らなかった。
生徒と先生という立場上、個人的な連絡先を交換するのはタブーだ。だから、いつだって保健室へ会いに行っていたのだ。
通知先のSNSには、動画のURLが貼られている。
URLをタップして開いてみると、それは動画の配信画面だった。映像は、スマホから撮られたものに思える。
「は? え、何? 配信……」
西村の声が四ツ柳の頭の中で再生される。人が解体される配信があるんだって、と嬉しそうに言った声が。
映像はリアルタイムのようだ。映し出されているのは薄暗い室内。ぼろぼろのベット。朽ち果てた壁。まるで先ほどまで見て歩いていた病室のような風景だった。
映像の中で何よりも目を引くのは、そのベットに横たわっている人物の姿だ。
見間違えようもなく、先程まで隣にいた晦その人であった。
「先生!? くそ、こっからどうにか声は届けられねえのか?」
『先生、聞こえるか、見えるか』『俺だ、四ツ柳だ』と配信のコメント欄にコメントを入力するが、配信画面上にコメントが流れていくのみで、自動音声が読み上げてくれることはない。
がしがしと頭をかき回して映像を食い入るように見て四ツ柳は考える。
——ここに映っている部屋は何処だ? 一体どこだ? 歩いている間にあっただろうか、思い出せ、思い出せ……!
「ちょっとは落ち着いたら」
凛、とした声がする。自分以外に人は誰も居ない筈なのに。
声の方を見ると、足元に居る毛玉が見上げていた。
「……ジジか?」
「そうだよ。また話せたね。まこと」
階段の差を使って、ジジはぴょんと四ツ柳の肩に飛び乗った。
「ああ、くそ。アタリなんじゃねーか」
それはいつかどこかで聞いた声。猫の沢山いる異界で聞いた声は、この場所が確かに異界であることを教えてくれた。
ジジの言ったとおりだ。四ツ柳は胸に手を当てて、深呼吸をする。
「取り乱して悪かったな」
頭に乗ったジジを撫で、再度落ち着いて配信映像を見た。
画面は薄暗く、灰色の薄汚れた室内に蛍光灯が点滅している。
ベットを真横から少し高めの目線で写しており、晦が横たわっているのがはっきりと見える。
眠っているのだろうか、晦が動く様子はない。
投げ出された脚の先は、両足首に鉄の枷がはめられ鎖でベットに繋がれている。両手にもご丁寧に手錠がかけられており、身動きはあまり出来なさそうだ。
映像の様子から、先程まで探索していたこの廃墟の一室だろうことはわかる。
しばらく映像を見ていると、晦が身じろぎ、目を覚ます。
『え……なにこれ、ここどこ……』
怯え混乱した様子で周囲を見回している姿が映った。
「ああ、声届かねえし、すげえ怖いだろうな……。ジジが先生と一緒に向こうに行ってくれたらよかったんだけど」
「僕が向こうに行ったところでなにもできないよ。でも先生いないと帰るとこわからないの困ったね」
「それでも、あいつが怖がりなのは知ってるだろ。一人より誰かがいてくれたほうがずっといい」
四ツ柳とて、さっきジジが落ち着けと言葉をかけてくれなければ、暫くは取り乱していただろう。それほどに、他人の存在というのは心強い。
『四ツ柳? ジジは?』
画面向こうの晦の声はこちらにはよく聞こえる。怯えた様子で周囲を見回している様子が、酷く胸を刺す。
「先生! 晦先生! あんた何処にいる!?」
いっそ大声を出したら、この廃墟のどこかに居る晦に届くのではないかと画面に向かって叫ぶ。
叫びも虚しく、配信画面から自分の声が聞こえてくることもなかった。
『え、だれ……』
画面の向こうで、晦が息を呑んだ声をあげた。
「……誰か来たのか?」
スマホの配信画面に目を落とせば、晦の表情が険しくなっていくのが見える。
晦の視線の先を追えば、画面の端で注射器が空に浮かんでいることに気がついた。
何が入っているのかわからない液体が、晦の首筋へと向かって来る。
早く助け出さなければ。
虱潰しに病院内の扉を開けて回れば、いつかは見つかるに違いない。
四ツ柳は居てもたってもいられなくなって、駆け出した。
「くそ、走って探すぞ! ジジ!」
振り落とされんなよ、と告げて全速力で病院内を駆けていく。
一つ、二つ、ガラガラと扉をあけ放つが、晦は何処にもいない。
「先生、どこだ!? 聞こえたら返事してくれ!」
「まこと、足速いね……」
ぎゅうっと振り落とされないように衣服に爪を立てて、ジジがしがみついていた。
肩に乗る猫のことも気にかけられず廃墟を駆けまわるが、これといって収穫はない。
手に持っていたスマホから、カシャン!と何かが床に叩きつけられた音がして、思わず配信画面を見た。
空中に浮いていた筈の注射器が無くなっている。先ほどの音は晦が打たれかけた注射器を振り払った音だったのだろうか。
晦におかしな様子は何処にも見当たらないが、今にも泣きそうな表情でベッドの端へと後退している。
「せめてちょっとでも声が届けばな……!」
泣きそうな表情を浮かべている晦を、見ていることしか出来ないのがもどかしい。
ここでとどまっていても埒があかない。せめて足を動かして、再び片っ端から扉を開けていくことにした。
五.解体開始
「元陸上部の速さ舐めんなよ! 先生よかぜってー速いからきっちり捕まってな!」
息をきらしながらも、四ツ柳は扉を乱雑に開けてあたりを探す。
いくつもの扉を開けど開けど、晦の姿を見ることは叶わない。
1階を調べ尽くし、カンカンと2階へと登って行く途中で、四ツ柳はぜーはーと息を切らして手すりに手をついた。
たらりと、汗が額を伝って行った。
闇雲に探していても間に合わないかもしれないかと、再度配信画面を確認する。
画面の前には新しくストレッチャーが置かれており、その上にペンチ、トンカチ、大量の釘と幾つもの工具が並べられている。
晦の身体が、見えないなにかに乱暴に引かれベッドに押しつけられた。
無理矢理に手錠のかかった腕が伸ばされ、その下に赤茶けて汚れた木の板が置かれ革のベルトで固定される。
抵抗している晦の前に、とんかちと釘が浮遊し近づいている。
画面向こうの晦と、ばちりと目が合った。
いや、実際には晦は四ツ柳の目などは見えてはいないだろう。晦が見ているのは画面だ。スマホで撮られていることに気がついてくれたのだろう。
「何か、何かヒントないか、先生!」
呼びかけても無意味なことはわかっている。それでも、四ツ柳は画面に向かって声を上げざるを得なかった。
画面向こうの晦は、がたがたと震えて目の前の状況に怯えている。
じっとこちらを見つめて来ていた晦の目が、ぎゅっと瞑ったかと思うと、スマホのカメラに向けて下手くそな笑顔を作った。
まるで、大丈夫だよ、と伝えようとしているかのように。
「はは、下手くそな表情。やっぱ先生、つえーんじゃん」
あんな状況になっても、こちらを気遣おうとしてくれる晦の様子に泣きそうになりながら、じっと画面を見つめる。
晦を押さえ込んでいる何かは、シフターにしか見えない存在なのだろう。
『……っ、どけろって』
画面向こうの晦は、腕を思い切り動かして迫る工具を、押さえつける何かを殴りつけるように暴れ始めた。
暴れた衝撃で、何かがストレッチャーに当たってカシャーンと金属音を立てる。工具が散らばり、スマホが置かれていた椅子が倒れていく。
転がり落ちたスマホに、扉が映し出された。
扉にはめ込まれた、割れたガラスの向こう側。外れかけたプレートに病室の番号が書かれている。
”304”
3階にある病室だ。
「っしゃ! でかした先生!」
見えたプレートに、ぐっと拳を握って喜んだ。
「ってか三階か、一番上じゃねーか!」
駆け上がらねーと!と再び四ツ柳は走り出す。
ジジはいっそ振り落とされなければそれでいい。一つ二つ、飛ばし飛ばしで階段を上がっていく。肩に乗っているジジは、振り落とされないように必死なってしがみついていた。
ガシャン!と再びスマホから大きな音がして、慌てて足を止めて画面を見る。急ブレーキをかけてジジが落っこちないように片手で支える。
未だ映らない画面の奥で、息を呑む声と殴打音、金属の擦れる音やなにか生々しく水の滴る音が聞こえて来た。
やがて、何者かによってスマホの画面は元の位置へと戻される。
ベッドの上には暴行を加えられ、額から血を流している晦の姿が見えた。
「ああ、くそ! なんだってこんなことしやがる……!」
とうとう晦に危害を加えられて、四ツ柳にも焦りが募った。
「おりて走ったほうがいい? 場所わかったんなら迷わないでしょ」
四ツ柳の焦る気持ちが伝わったのか、ジジがそう提案してくる。そのほうがどちらも早く晦の元へ辿り着けるだろう。
猫であるジジなら尚更、四ツ柳よりもうんと足は速い筈だ。
「大丈夫そうだったらそうしてくれると助かる! 304な!」
「わかった。あとで合流だね」
ぴょんと肩からジジが降りて、駆け出していく。
黒い塊は闇に紛れて、やがて見えなくなってしまった。
「俺も早く行ってやんねーとな……の、前に」
明らかに危害を加える何かの存在が居る。一体だけなら問題ないかもしれないが、複数相手取る場合は武器か何かが必要だろう。
喧嘩もしたことが無い綺麗な自分の手を見つめて、四ツ柳はぎゅっと握りこぶしを作った。
配管とか引き千切れるなら鉄パイプでもいいし、とにかく手近で扱えるものが良い。何か武器になるようなものを持って来るべきだったな、と後悔をした。
きょろきょろと探しながら廊下を走れば、倉庫のように雑多に物が置かれた部屋を見つける。
動物の糞や土埃に塗れた部屋を漁りながら積まれていたモノをひっくり返すと、赤い塗料が剥げかけたバールが転がっているのを見つけた。
「あった! とりあえずこれで気絶は狙えそう……か?」
ぶんと振りかぶってみれば、得物として申し分ないことがわかる。本当は金属バットのような持ちやすくて長い物が良いのだが、贅沢を言える状況ではない。
さて一気に走るか、と四ツ柳が廊下に出た瞬間だった。ポケットにつっこんでいたスマホから『……え、あ……やだ……』と恐怖に震える晦の声が聞こえて来た。
なんだ、と思わずポケットからスマホを取り出して画面を見る。
ベッドに横たわる晦の腕に、赤茶けて錆びた切れ味の悪そうなノコギリの刃があてられていた。
上着の袖はまくられており、探るように刃が晦の腕を撫でる。
見開かれた晦の目からはぼたぼたと涙が落ちていた。
『やだ、やだまって』
静止する晦の声も虚しく、画面向こうからはぐちゃりと肉をひき潰す音が聞こえた。
続いて悲鳴、嗚咽、柔らかなものが潰れる音。やがて固いものを削るようなごりごりと大きく刃が引かれる音が続く。
「え、あ、せん、せい……?」
画面から聞こえてくる、今まで聞いたことのない悲鳴。想像したこともないような音に、四ツ柳は思わず手に持っていたバールをとり落としそうになる。
画面向こうの薄汚れたシーツが鮮やかに赤に染まっていく。肉が割けて、中途半にちぎれた筋肉の細い束がざくざくと引きちぎられていく。
切り離された左腕は邪魔だとばかりに無造作に机の上に移動していく。誰かが持ち上げ運んでいるかのように。
そうして晦の左腕のあった場所には、合間に白い骨が覗く赤い断面だけが残った。
呻く晦をよそに、その傷口はすぐさまに止血が施されていく。
『……もうやだ』と、ぐずついた声が晦の口から漏れた。
四ツ柳は握っていたバールを取り落としそうになりながら、配信画面を呆然と観ていた。
混乱する頭を抱えながら、それでも「いか、行かないと!」と口に出し、転びそうになりながら、いつの間にかまた走り出していた。
行かないと、早く、早く行って助けないと。大丈夫って言ったのは自分だ。こんな怖い思いをさせるつもりなんかなかった。こんな痛い思いをさせるつもりなんて、なかった。
泣きそうになりながら、でも泣きたい目にあっているのは晦のほうなのだと、四ツ柳は唇を噛んで全力で足を動かした。
廃墟を走る為に、もろそうな床を踏み抜かないようにとか、そんな考えは頭からすっぽぬけた。
飛び出した釘が頬を擦ったり、朽ちて倒れた何かに躓いて床に手をついたり。
画面から聞こえてくる音が、状況が、走るための冷静さを四ツ柳から奪っていく。
息を切らしながら 崩れた廃墟を駆け上がる。気がつけば、目指していた”304”のプレートがかかる部屋の前まで辿り着いていた。
扉の前ではカリカリとジジが爪を立てている。
「あ、まこと。ここ僕じゃはいれない」
「ああくそ、扉がっつり閉められてんじゃねえか! これじゃジジも入れねえか!」
「……まこと?」
「下がってろ!」
てて、とジジが一歩下がって訝し気に四ツ柳のことを見る。
四ツ柳はジジのそんな様子にも構わず、扉に向けてバールを思いきり殴りつけ、歪みが出たところに蹴りを入れる。
それでも上手く壊れてくれないものだから、苛立って飛び込むようにして扉に体全体を叩きつけた。
「先生! 気はしっかりもってるか! 晦先生!」
バールを構えて、部屋へと押し入る。
ベッドに横たえられた晦は、ぼろぼろと涙を溢して、やだいたいとひたすらにぐずついていた。ノコギリの刃はひとりでに宙に浮きながらもう片方の腕に当てられようとしている。
「……ぅ、あ……よつやなぎ……」
「ふざけんなよ! それを! もっかいでも突き刺してみろ!」
怒りに任せながらバールを振るう。そこに何かがいるならばと、突きとばせるように間に入って晦の腕に当てられようとしているノコギリを弾き飛ばす。
ガランガランと音を立てて、ノコギリは床へと叩き落された。
横たわる晦の右腕が、近づいた四ツ柳の身体に触れる。
そうすると、赤黒く汚れた白衣を纏った人々が狭い病室にみっちりと並んでいるのが視界に映った。
「次はてめーに刺してやる。自分が何をしたのか教えてやらねーとな」
舌打ちをしながらバールを向けて人々に威嚇をし、身体に残した晦の腕をそっと触れる。
「先生、助けに来るのが遅れてごめん」
「……よつやなぎ……あぶない、から……はやくにげて……ころすきがないんだ、捕まったら……ダメだ」
赤く汚れたシーツの上に、左腕を二の腕ほどからなくした晦がぐったりと横たわってそう言った。痛みに呻き、汗をしたたらせている。
「先生置いて逃げるわきゃねーだろ。逃げられるわきゃねーだろ」
視界に入れていなければ白衣の人間達を殴れない。難しいだろうけど、服握ってて、と四ツ柳は晦の右手に自分の服の裾を掴ませた。
「無事ですむと思うなよ、イカレ野郎ども!」
手に持っていたバールを振り下ろすて、目の前の白衣の男の後頭部を殴りつけた。ぐちゃりと頭部が叩き潰れる感触が伝わる。
ひるんだ隙に近くにいた白衣の人間にも蹴りを入れて、突き飛ばす。抵抗しようとするものはまたバールで腕を叩き折っていく。
彼らが凶器にしていたのこぎりを拾い上げては、切れ味の悪い刃物を狙いもせずに、ひたすらに動く人間達に振り回して肉に食いこませた。
無我夢中になって凶器をその場で振り回していれば、周囲にいた人の形が次第に変形していく。
やがて一人、二人と物も言わずにその場に崩れ落ち、どろりと赤黒い泥となって地面に溶けて消えた。
それを合図に、ひしめいていた残りの白衣の人影もぐずりと病室の闇の中に溶けて見えなくなる。
「はー、はーっ……なん……だ……?」
「よつやなぎ、よつやなぎ……もう、だいじょうぶだから……」
ぐいぐいと、晦に服の裾を引っ張られて四ツ柳は我に返る。
血と涙でぐちゃぐちゃになった晦が、悲しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「ああ、もう大丈夫だから。ほんとうに迎えに来るのが遅くなってごめん。それなんとかしないとな」
晦の手と足に繋がれた枷を見る。手持ちのバールやノコギリでは、到底壊せるような代物では無いだろう。
この近くに、これらを外す鍵があれば良いのだが。
六.鍵はどこ?
晦がゆるく首を振って、四ツ柳の顔を見上げていた。
ぼろぼろに泣きはらした目で、「だいじょうぶか?」と四ツ柳に声をかける。
「俺は何も問題ないよ、ほんとゴメン」
「問題ないなら、よかった。怪我も……いま診れないからさ」
ふいに、晦が自身の腹部を不思議そうに眺めて自身の腹に残された右腕で撫でる。
抵抗して暴れた時に、着衣が乱れてしまったのだろう、少しはだけて腹部が見えていた。
その腹部に、奇妙な縫合痕が見える。
怪我をしたことがあったのだろうかと四ツ柳は晦の顔を見たが、晦はその縫合痕を怪訝な顔で見つめて撫でていた。
「……?」
いやな予感がして、さっと四ツ柳の顔から血の気が引いた。
いつの間にかベッドの上にあがって、うろうろと晦の周囲を歩き回っていたジジに四ツ柳は縋る様に目をやる。
「ジジ……」
「僕もそう思うよ」
慰めるように晦の頬を舐めてから、ジジは四ツ柳を見上げる。
「ほら、道具はある。僕は何も出来ないけど。……どうする?」
ジジはストレッチャーに並べられた器具に顔を向けて、四ツ柳に聞く。出来るのはお前だけだと。
「先生、なあ、鍵は、どこにあると思う……?」
ジジの言葉と行動を横目に見ながら、尚も信じたくないと四ツ柳は晦に訊ねる。
「……え」とぼんやりした顔で晦はその言葉を受け取ったが、やがて自分の腹を再度撫で、「ああ。うん」と確認するように目を瞑って息を吐く。
「わかった、大丈夫。やってみて」
晦は衣服を捲り、腹部に不自然につけられた縫合痕を晒していく。
「……ごめんな」と苦しそうに晦はそう言った。
ジジを見ても、晦を見ても、誰も否定をしてくれなかった。
両手があるのは、ここから晦を連れだして共に帰れるのは四ツ柳だけだ。
唾を飲んで、四ツ柳はストレッチャーへと手を伸ばした。
薄暗い室内。ベットに横たわる血に塗れた晦。
異様な風体の医者の造形をした者たちが残した錆びた医療器具が残されたストレッチャー。
黒猫がこちらを見ている。
やるべきことは、もうわかっているはずだ。
やりたくない、そんなことやりたくない。心の中で叫び続けても現状は変わらない。
晦を連れてきたのは誰だ? 晦ならきっと大丈夫だと言って慢心して、こんなことになるだなんて予想しなかった自分の落ち度だと四ツ柳は自分を責め立てる。
ストレッチャーの上の錆びた道具を、服の裾で出来るだけ錆を落として、震える手で縫合痕に向けていく。
目を逸らすな、逸らしたら出来ない。
「先生、大丈夫だから、見ないようにして。あと、舌噛まないように気を付けて」
「……四ツ柳のせいじゃないからな。大丈夫」
晦に、笑顔を向けたつもりだったが上手く行かない。晦が配信で見せたような笑顔を、もう下手くそだと笑うことは出来ないだろう。
外科手術など、四ツ柳に経験があるわけが無かった。ゲームとか、ドラマとか、そういった知識しか無い中で、それらを懸命に手繰り寄せるようにしてメスを、縫合跡に沿って入れていく。
傷口に沿ってぷつぷつと赤い血玉が溢れてくる。
そのままでは、肉に阻まれ何も見えない。指をさしこみ傷口を広げた。くぐもった声が聞こえたが、止めてもいられない。
肉と脂肪の弾力を避けて、腸の合間を縫っていく。生ぬるく柔らかい腹の中を探っていく。
ぬるぬると血液で手が滑る。早く目的のものを見つけなくては。本当にこんなところにあるのだろうか。
ぐちぐちと湿った音と晦の口から漏れる嗚咽が薄暗い室内に響いている。
焦り、指先が腹の奥深くに潜り込んだ。
晦の身体がはね、呻く声が上がった。
傷口が裂け、ごぼりと埋まった手の質量分の血液が溢れ出して来た。
吐く息も荒く、青ざめ不安げに怯えた瞳と目があう。暖かな腹の中はどくどくとと脈打っている。
異常な光景に気がつけば息が上がり、なぜか四ツ柳の心臓がどくりと高鳴った。
「……っ、ぅあ。……ごめ……」
「先生、痛い? 痛いよな、ごめん、俺こういうの上手くなくてさ……」
「だいじょうぶ、だから」
晦がゆるく首を横に振る。大丈夫ではない筈なのに、大丈夫だと小さく呟く。
今まで覚えたことの無い感情に、浴びた血液に四ツ柳は胸を打った。真っ赤に染まる自分の手を呆然と見つめる。
大丈夫じゃない筈なのに、大丈夫だと振る舞う晦を、もう少し壊してみたくなってしまった。
何もできないまま泣いて手を引かれてた前のあんたのほうが、よっぽど可愛げがあったよ、なんて。そう思ってしまった自分の首をぶんぶんと四ツ柳は振りかぶる。
長引かせてはダメだ。鍵は手に入れなくては。
鍵を外して、ここから二人で出るんだ。
「ごめん、まだ見つからない。なるべく早く終わらせるから」
四ツ柳は血の臭いが充満する傷口に顔を近づけて、再度探っていく。
切り裂かれて、血を流しながら脈動する肉なんて今まで目にしたことなんてなかった。ドラマやゲーム、理科室の人体模型で嘘っぱちな中身を見たくらいだ。
探し進めるたびに、もう少し無為にまさぐって呻き声を上げさせたいという欲がせり上がって来る。
欲に負けそうになる自分の手の甲に、四ツ柳は思わず持っていたメスを突き刺した。
頭を冷やしながら、じっと晦の腹の中身を見つめる。
そうすれば、ようやく血とは違った光る何かを視界の端に捉えた。
迷うことなく指を伸ばす。生ぬるく柔らかい腹の中に、固く触れるものがあった。
つまみ上げて、引き出せば、指先には輪で二つ繋がった錆びた鉄の鍵が、血液で赤く光っていた。
「あった! 鍵、いや、ひとまず縫わねえと……!」
「あった……? よかった、ありがと……」
血液を流す晦の腹を縫い合わせ、慌てて四ツ柳は止血をしていく。
異界だから、ここから出られたらこの傷も治るのだろうか。素人の縫合ではあまりにも心もとなさ過ぎる。
「ぁ、あと自分でできるから……」
晦が縫合を自分で行おうと両手を差し出すが、片手がないことを思い出したのか、ばたりとベッドの上に残された右腕をほおり投げた。
「ほんと、時間かかってごめん。大丈夫、出られるから」
軽く縫合をしてから、四ツ柳は自分の服を裂いて包帯のかわりにしていく。清潔な布が無いことが悔しかった。
枷を外そうと晦の手足を見れば、両手足共に枷がかかっている部分が赤く腫れてしまっていた。
あまりにも、満身創痍だった。
「先生のほうこそ何も出来なくて、ごめんな。四ツ柳は……怪我は、血……先生のかな」
すべてが終わった故か、ようやく晦が力なく微笑んだ。
「いい、あんなの何もできなくて当然だ。先生はここから出る事だけ考えてくれ」
ガチャリガチャリと枷を外し終えて、1つ、鍵に余りがあることに気が付いた。
目線の高さに鍵を掲げ、じっと見る。ラベルなどはついていないようで、何のための鍵かはわからない。
「どっかの扉の鍵……だったりするのか……?」
悩む四ツ柳の横へ、作業の合間は邪魔にならぬよう室内でうろついていたらしいジジが、「おわった?」と言いながらベッドに飛び乗って近づいてくる。
「なんとかな」
「お疲れ様」
そこから更に肩へと飛び乗って、ぺろりと血を浴びて真っ赤に染まった四ツ柳の頬を舐める。
「ジジ、お前さ、これが何の鍵かわかったりしねーか?」
血塗れの鍵をチャリと鳴らしてジジに見せれば、晦がのろのろとベッドに腰かけ、「ここから出る……」と、半身を起した状態でこちらを見て言った。
「それ、裏口の鍵だ」
そう言ってから、何故自分がそう思うのか理解できない様子で「……あれ」と床に視線を落とす。
「逃げてほしかったんだ。それで、ここから……」
ぽつぽつと呟く晦を見て、また異界の記憶が流れ込んできているのだろうかと四ツ柳は思った。
晦が言う裏口などあっただろうか、とスマホを取り出して写真に撮った案内図を見返した。
かすれているが、確認すれば玄関の反対側に別の入り口が書かれていることがわかった。
「なるほどな、ここか。最短ルートで向かってみるか?」
「こういうとこは、先生みたいな人のほうが詳しいよ。だから、多分ついていったら間違いない」
画面を指でなぞってルートを考えるが、横からジジが言葉を挟む。
「それもそうか。案内図が正しいとも限らねえもんな」
「……ん。行こう。大丈夫。歩ける」
「肩貸すよ。幸い、なんか追っかけて来る気配はねえし、ゆっくり行こう」
ゆっくりと晦は立ち上がり、そっと右手で頬の血を拭った。
「助けに来てくれてありがとな」
晦はジジにも目線をやり、お礼を言う。
四ツ柳は晦に肩を貸す前に、傍に居たジジを抱き上げて、「なあジジ、俺が変な事したら噛んでいいからな」と耳打ちする。
左肩か頭に乗せてやろうかと持ち上げ、自分が血塗れであることをふと思い出す。
結局、一番被害の少ない後頭部に乗せることにした。
「そう。よくあることだよ。ここではね。気にしないほうがいいよ。気がついたらもとに戻ってるときもあるし。そうじゃないときもある」
「俺が気にする」
先輩風をふかすように、頭に乗ったジジがそう言う。晦にジジの声が聞こえていなくて良かったと心底思った。
会話の内容がわからない晦は、曖昧に微笑みを作って、「帰ろっか」と一人と一匹に言う。
四ツ柳は晦に肩をかし、部屋から足を踏み出す。
玄関を目指し階段を降りて行けば、背後からざっざと規則正しい軍靴の音が聞こえる。
四ツ柳が一人で走り回っている間は気づかなかったが、廃墟内は血に塗れ、鉄と吐瀉物、人の汗、油、野生の生き物の嫌な匂いで溢れていた。
並んでいる病室からは、呻く声が聞こえてくる。
割れたガラス窓からちらりと見えるベッドの上には、もぞもぞと肉の塊がうごめく。
耳も鼻も欠けた凹凸のない丸い表面に見開いた瞳が、ものいいたげに部屋の前を通る四ツ柳達をじっと見ている。言葉にならないうめき声が、口元部分にある穴からもれる。
廊下の奥では手や足、どこかが欠けた形の人の影がふらふらとさまよっていた。
「……ぅう、こっち……音が少ない……」
「あ、ああ……」
二人して息をひそめ、目の前の光景にぎょっとしながらも進んでいく。
音に追われるように廊下を急げば、案内図に書かれていた裏口へとたどり着く。
ひっそりと佇むそれは、職員用らしき小さな扉だ。
扉の隙間から光がもれている。ここが異界のひび割れ、出口なのだろう。
「帰れそうだね」
とっと頭の上からジジが飛び降りる。
四ツ柳は進む足をぴたりと止め、なくなってしまった晦の左腕を見る。切り落とされた腕は三階の部屋に置いてきてしまったが、くっつけられるものでもないだろう。ましてやここは異界だ。何もかも常識は通用しない。
「先生、それ戻んなかったら大事でしょ」
「え、あぁ。でも、ほら、ここから出たら、変な症状、戻ってることもある、から……」
「そうじゃない可能性もある、だから」
自分の肩から晦の右腕を離し、じっと左腕を見つめる。
「……これはあんたの真似だけど。今回は俺が完全に巻き込んだんだし、文句言うなよ」
覚悟を決め、四ツ柳は自分の頭を晦の左腕付近に近づける。
そういうことができる、というのを直接教えて貰ったわけではない。一番最初の異界での時、晦がしているらしいことを見たことがあるだけだ。
——俺のせいで先生が喪ったものを、元に戻せますように。
じっと、四ツ柳は願うように目を瞑って祈る。
次第に、燃えるように眼球が熱くなっていく。
肉が剥げ落ちていく感覚がする。痛い、目が熱い。
どろりとした液体が目から流れ落ちて、唇を噛みながら晦の腕に寄り添い続ける。
「四ツ柳! お前!」
何かを察したように、晦が大きな声を出す。
がしりと、四ツ柳の肩を掴んだ。
両手で、しっかりと。
「はは、良かった。見様見真似でも出来るもんだ」
肩を掴んできた手に、四ツ柳は安堵して触れる。成人男性の手だ。晦の左腕が元に戻ってくれたのだ。
「これで全部元通り、だろ?」
「そんなわけ……元通りじゃないんだ! これは、代わりに移すだけ。応急処置でもなんでもない。どこか……」
屈みこんで、四ツ柳の顔を覗き込んでいるのだろうということがわかる。
困ったことに完全に目があけられないものだから、四ツ柳には晦の表情も、様子もわからない。
けれど四ツ柳には不思議と不安はなかった。視界が無ければ自分が可笑しなことをしなくてすむし、目の前に脱出口があるなら一歩進めば異界から出られる。
両手で頬が撫でられ、目から流れ出す体液を拭われる。
「四ツ柳……目、開けられるか」
四ツ柳の目は未だに燃えるように熱くて、何かしら眼球に損傷があったんだろうことは想像に難くない。
目をあけられたら、何か変わるのか? そう思ってゆっくりと瞼を開ける。
視界は、真っ暗なままだった。
「……はやく、出ようぜ先生」
「四ツ柳……なんで、そんな」
息を呑んだ音がする。開けた目の状態はそんなに醜かったのだろうか。もしかしたら、眼球は潰れてしまっているのかもしれない。
「だって、全部俺のせいじゃん」
「四ツ柳のせいじゃないだろ! ばか!」
ぎゅっと頭を抱きしめられる。突き飛ばすことも出来ずにされるがままになっていた。
「無茶するなって! 言わなかったか!? せっかく、せっかく一緒に来たのに……」
「俺が居なきゃ、先生こんなところ来てないでしょ。俺はもう、なんにも喪うもんなんかないからさ。でも先生は違うじゃん? まともでいてよ」
「俺がいなかったら、帰れないだろ! だからここまで来たんじゃないか」
晦がぼろぼろと泣いていることはわかるのに、四ツ柳は困ったように笑うことしか出来なかった。どうして、こんなに怒られているのかが全くわからない。
「戻すから。大丈夫。あの学校の生徒達だって不思議な状況の子は多い。なんとかする方法、きっとあるから……」
「巻き込まれることをお願いはしたけどさ、先生は無傷のままで帰ってもらうつもりだったから」
「調査しにこんな学校まで来たんだろ! やりたいこと、あったんだろ! 先生のせいなんかで諦めるようなことになるなよ……」
「確かに、目が見えねえのはだいぶ不便だけど……。音が聞こえないわけじゃねえし、なんとかしてくよ」
ようやく晦は抱えていた腕を離して、四ツ柳と手をつなぎ直す。
「やっぱ先生が俺のレディでよかったな、こうやって無事に帰ってきてくれんだしさ」
「手伝うから。四ツ柳のやりたいこと。そしたらその目も……」
元に戻った晦の左手に触れて、嬉しくなって四ツ柳は微笑んだ。開けたままだった目が、晦の手によって撫でるように閉じられた。
「先生以外には、頼めねえよ。これからも頼むぜ」
「わかってる。ただ……手伝う上で一つ約束してくれ。先生の代わりにならないこと。それをやるのはこれ限りにしてほしい」
ぎゅっと晦に力強く手を握られて、引かれる。
すぐには承諾できそうにない約束を投げられて、四ツ柳の足は動かなかった。
「嫌だ……って言ったら、もう一緒には居てくれねーの」
「そんなことはないよ」
立ち止まって、晦は四ツ柳の頭をそっと撫でる。
「ただ、先生は先生だから。いつまでも四ツ柳のそばにいられるわけじゃない。四ツ柳が自分の身を危険にさらさない方法だとか……そういう冷静な判断ができるようになってほしいんだ」
ふう、と息を吐いて一拍。
「これは、ダメだよ四ツ柳」
晦が言い聞かせるように四ツ柳に言う。
「でも、ありがとうな。気持ちはすごく嬉しい。……頼りなくてごめん」
何が駄目なのかがわからなくて、でも晦が感情的なもので言ってるわけでもないことがわかって、四ツ柳は黙って俯いていた。
「………わかった。その、簡単にこういうことしないようには……約束する」
「うん。ありがとう」
ぎゅっと手を握って、二人で出口の方向へ歩いていく。四ツ柳の目には、光も、何も見えない。
扉の近くで黒猫が待っていたようで、ふわふわとした毛が四ツ柳の足元に纏わりついてきたのがわかる。
「まことはけっこう無茶するね」
「……俺は先生が無事なら、それで良かったんだ」
「だめな理由、わかるといいね」
ガチャリと晦が鍵穴に鍵をさし込み、扉を開く。
病院内の騒めきはかき消され、次第に静かになって行く。
光景の変化を四ツ柳は知ることはできないが、音や臭いの違いから、ああ、異界からは出ることが出来たんだな実感した。
気がつけば、二人して病院の外に倒れていた。
ホーホーと遠くで梟が鳴く声がする。どうやら、すっかり夜になってしまったらしい。
「外、だよな?」
「……やっぱり、まだ駄目そうか?」
晦は四ツ柳の目を開いて確認する。どうなのかは聞くまでもないのだろう。
「……すこし時間がたってからよくなる場合もある。とりあえず、帰ってきてくれてよかった」
「まあ、こうなること織り込み済みだし……」
「ジジもいるか?」という晦の言葉へ「にゃあ」と反応を返す鳴き声がする。再び、あの黒猫とは喋れなくなってしまったらしい。
ジジには晦が言っていた”ダメな理由”がわかるらしかったが、どういうことだろうかと四ツ柳は俯いて考えていた。
一人で歩こうかと思ったが、音だけではどこにも進めなかった。土地勘もない上に人気のない森の中では、一人ではバス停になんて永遠に辿り着けなかった事だろう。
そうしてはじめて、ああ、バカだったかもしれないと四ツ柳は思った。
「帰ろうか」と晦に声をかけられて手を繋ぐ。ゆっくりと手を引いてくれる晦の後ろをついて、夜の道を歩いていく。
「んーー。とりあえず、今日は先生の部屋泊まるか。生活困るだろ」
「別に、部屋にモノ少ないし……」
手探りで過ごせないこともないよ、と言い通そうとして、自信が無くなって四ツ柳は押し黙ってしまった。
ぽんぽん、と晦に頭を撫でられる。
「ジジもいるし。一人でいるよりきっといい」
リュックの中に入れられているらしい猫が、晦に同意するかのように鳴く。
「……ごめん」
これは自分が悪いやつだ……となんとなく感じながら、四ツ柳は晦の提案を抵抗せずに受け入れる。
帰る家はないけれど、今は帰れるところがあるんだなぁと、晦の手をぎゅっと握った。
七.真相
それから数日。
目を使わずに自室で過ごすことには慣れ始め、保健室に置いてあった白杖を借りてなんとか短い距離の移動は出来るようにはなっていたが、寮内の階段でさえ転がり落ちそうになったり、自室の扉がどこにあるかわからなかったり、日々の生活は不便という言葉が生易しいと感じるほどだった。
当然、敷地の広いレッドブランチスクールだ。寮から学校に向かうことは一人ではできず、晦の迎えを待って、自分のクラスには向かわずに保健室へと向かう。
視力を失うことを四ツ柳は軽々しく考えてはいたが、音だけではまともな学生生活を送ることが出来ないことを実感していた。
三日月財団へと送るべき報告書も、殆ど晦に代筆して貰った。これでは誰が主軸となって異界調査の仕事をしているのかわからない。
自分が晦の喪った右腕の責めを負いたくないが為に、辛いことを他人に押し付けてしまったんだろうな……と四ツ柳は包帯が巻かれた瞼の上に触れて考えていた。
落ちくぼんで中身が喪失していたようだった眼球であったが、上から触れると今は物質が詰め込まれているような感覚がする。
もしかしたら、今なら目が見えるのかもしれなかった。
保健室の椅子に腰かけて考え事をしていると、晦が扉を開けて部屋に入って来る。事務局から四ツ柳へ届け物があったようで、それを受け取りに行ってくれていたのだ。
「ありがと、せんせー。なんだった?」
「ん。多分これは……異界調査の関係かな」
封筒を渡されて、手探りで取り出す。
中には書類が数枚と、音声メディア機器にイヤホンだった。目が見えない四ツ柳の為に、報告書を音声としてまとめてくれたのだろう。
四ツ柳はイヤホンを片耳につけ、「先生も、聞いといて」と晦にもう片方を渡す。晦は少しばかり躊躇った様子は見せたが、すぐにイヤホンを受け取る。
お互いが片耳つづにつけたのであろうことが、ピンと伸ばされたコードで感じられた。
音声データを再生すれば、聞いたことのない中性的な声が淡々と報告書を読み上げてくれた。
内容は、戦時中あの病院は情報収集のために捕虜に拷問を行っていた施設だったという説明から始まる。
対戦国による負傷を追った兵士達の私怨も混ざっていたのか、施設では必要以上の暴行も多く行われていたらしい。
さまざまな拷問を行い相手の国の情報を得ようとしてきたが、訓練を受けてきた兵士たちは中々口を割らずに絶命することが多かった。
次第に同じ部隊の二人を捕まえ、一人を拷問しもう一人に別室でその映像を見せながら問い詰める方法に拷問内容は変更された。
それでも機密を漏らさないのであれば、死んだほうがましだという状態まで損壊した姿を映像で見せ、情報渡せば楽にしてやると詰め寄った。
そうまでしても口を割らない者は、殺したければお前が殺せと同じ部屋に放り込まれた。
そうしたことが施設で行われていたという話を、逃げてきた捕虜が語った記録があったのだという。
戦後この施設は、逃げ出した捕虜の証言で摘発される。
なんでも拷問されていた友人が、隙を見て奪った鍵を飲み込んで隠しており、友人を殺すように仕向けられた段階で腹を裂くように言われたのだという。
友人の腹の中から、彼は見事に出て来た鍵を手に入れた。
友人を手にかけたことで発狂したように見せかけ、そうすることでようやく逃亡が出来たのだとか。
そこで起こった様々な軍人たちの感情を、異界は模倣していたのだろう。
報告書の音声はその言葉で締めくくられていた。
「て、ことで。あの場所の真相はそういうことだったっぽいな。最後に先生が感じてたのも、昔の記憶をなぞってたのかね」
聞き終わって、四ツ柳はイヤホンを外す。
一緒に聞いていた晦も、内容の悍ましさから身震いする様子が聞き取れた。
「そんなことが……。異界以前に怖い話だな」
「事実は小説よりも奇なり……だっけか。実際の人間ってのも相当怖いんだな」
報告内容についての感想を二人して語り合いながら、晦は四ツ柳の目に巻いた包帯をしゅるしゅると取っていく。
暫く晦が四ツ柳の瞼の上を触れながら観察している様子があり、今日は新しい包帯は巻かないのかなとぼんやりと思う。
恐る恐る触れられている様子に、もう見えるんじゃないかという期待が込められている気がした。
「……目え開けるの怖いんだけど」
「カーテンしめるか?」
「え、ああ、うん」
しゃっと保健室のカーテンが閉められた音がする。「少し薄暗くはなったぞ」と晦が言って、再び顔を覗き込んでいる気配がする。
数日間目を瞑ったままだったものだから、開けたら開けたで、一気に光の情報が来そうで怖いなと思う。
ままよ、と瞼を痙攣させ、四ツ柳は二、三度瞬きを繰り返した。
目の前で、心配そうに四ツ柳を見つめている晦の顔が見えた。
まだ薄ぼんやりと視界が揺らいではいるが、次第に焦点は合って来るだろうと感じる。
「………戻ってる」
「ほんとか! 見えてる? 眩しくないか?」
「先生が満面の笑み浮かべてんの、見えてるよ」
はーーっと溜息をついて、四ツ柳は椅子にもたれかかった。見える、見えてる。
晦が嬉しそうに、ぺたぺたと両手を伸ばして四ツ柳の頬に手を当てる。
「薄暗いから! 光も問題ない!」
頬に手を当てられて恥ずかしさに語気を強めれば、晦はぱっと頬から手を離す。
「ほんとに……良かった」
心から安堵した声で晦にそう呟かれて、酷く心配をかけてしまったのだなと、きまりが悪くなった。
ここ数日、本当に生活面でも迷惑をかけっぱなしではあったし、そちらも晦には申し訳が立たない。
「まーなんだ………その、悪かったよ」
「ふふ。わかってくれたらそれでいいよ。大人は……きっと子供が思ってるよりずっと心配してるから。うっとうしいかも知れないけどな!」
わしゃわしゃと、晦が四ツ柳の頭を撫でて立ち上がる。
「子供扱いされんのはしゃーねえけど、不服だな……。いや、わかってはいるけどさ……」
「子供扱いというか……心配なんだよ。自分だけが頑張れば大丈夫、って思っていそうなところが、特に」
「その、そこは……今回のことで多分ちょっとは、理解できたというか。案外一人で大丈夫だって思ってたら、全然大丈夫じゃなくて、逆に迷惑かけてる今があるし」
じっと、四ツ柳は送られて来た音声メディアと書類を見つめる。書類には、音声で読み上げられたことと同じ内容が記されており、財団の人達にも手間をかけているのがありありと理解が出来た。
「念の為しばらくは安静にして。保健室通ってていいからな」
「あー保健室登校いつ辞めよっかな……この状態の後で教室に戻るの、けっこー勇気いるわ」
物をテーブルの上に置いて、両手を頭の後ろに回した。電気の消された天井を見上げて四ツ柳は物思いにふける。
「いつでもいいぞ。この学校のいいところは、異常事態に寛容なところだ。きっと誰も、それほど気には止めてないはず」
保健室の棚をガラリとあけて、晦はいつもの飴の瓶を取り出した。ラインナップは変わり映えしないハッカ飴。保健室に来てハッカ飴を食べている奴なんて、きっと四ツ柳しか居ない。
「快気祝いはまた改めてやろうな!」
「ん、サンキューせんせ」
手のひらを差し出すように飴を数個目の前に持って来られて、四ツ柳は顔の前で手を広げる。
ぽろぽろと、手のひらの上に落とされた飴玉が光を反射して転がった。
「そういえば、目が戻ったなら走り込み再開できるんじゃねーか……!?」
「急に目の使いすぎて眩まないようにな」
かりかりかり、とドアの向こうで爪で引っ掻く音がする。「お」と音に気がついた晦が扉を開けると、小さな黒い影が転がり込んで、四ツ柳の足元にまとわりついてにゃあと鳴いた。
「ジジ、ま~た来たのかお前」
足元に来たジジを撫で、抱き上げる。「ちゃんと戻ったよ、目」とジジにも見せるように、大きく目を開ける。
黒猫は目を細め、ぺろりと四ツ柳の頬を舐めた。
カーテンの開かれる音がする。
窓からは柔らかな陽光が降り注ぐ。
もうすこしで、夏がくるだろう。
問題の廃墟は、被害者が出ないようにと三日月財団が買取封鎖することにしたようだ。
錆びた門には、立入禁止のテープが張り巡らされている。これで、妙な配信が再び起こることはないだろう。
……よほどの好奇心を持ったものがいなければ。
八
ねえ、知ってる?
解体配信の噂。
人が解体される映像が配信されているんだって。
そういう作品なんじゃないかって?
あー、そうかもね。
でもさ、場所もわかってるんだよ。心霊スポットになってるんだ。
……ねえ、行ってみない?
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GM:まよこ/シフター:晦端午、PL:ゆかり/バインダー:四ツ柳諒
リプレイ小説書き起こし・ロゴ:ゆかり