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ふたりだけの幸せ
一.それぞれの場所で
満開だった桜の花は落ちきって、木々は青々とした葉をたっぷりと携え、枝を大きくしならせている。
レッドブランチスクール校舎————。
担任がホームルームを終わらせる声を聞いて、四ツ柳は鞄をひったくって席を立った。
放課後のルーチンとなった走り込みを終えて、四ツ柳はタオルを片手に保健室の前へとやって来る。めずらしく『外出中』の札が扉にかけられているが、鍵はかかっていないらしい。
そおっと保健室の扉から覗き込むと、札が示すとおりに件の養護教諭が在室ではないことが確認できる。
四ツ柳はどかりと職員用のテーブルに腰かけて、本来此処に座るべき筈の人間を待つことにした。
奇妙な森での出来事から暫くが経った。
あれから再び異界に巻き込まれることも、学生生活においても特段変わったことも起きず、四ツ柳は平和な毎日を過ごすことが出来ている。
異界による変異を受けていたのか、元から存在しなかったように消えてしまっていた晦の表情は、やがて時間の経過と共にころころとわかりやすいものへと戻ってきた。
ただ何がきっかけでこうなったのか。一点だけ、奇妙な出来事が続いている。
ある日を境に、晦は目に見えて四ツ柳を避けるようになっていったのだ。
ある時は職員会議があるからと保健室を飛び出され、またある時は書類仕事が終わっていないからと部屋から追い出された。本来の意味で保健室へと寄って来る生徒たちは変わらずにあの部屋に招き入れられているのに、だ。
本来の意味で保健室に来ているわけではなく、やや個人的な理由で保健室に入り浸っている身としては、保健室に来るなと言われても仕方がないかと思う節はある。傷病者に差し障りが出るからなどと一言貰えたならば、それで一応の納得はしただろう。
だがそれらの説明も一切なく、一方的に避けられて理由を聞き出すことすらままならないのは不服だと、四ツ柳はやや憤慨した面持ちで晦が来るのを待ち構えていた。
「四ツ柳……また来てたのか」
ガラガラと保健室の戸を開く音が聞こえたと思うと、そこから聞き慣れた声が溜息と共に発せられた。
「おかえり、先生」と不満げな声で四ツ柳が声をかけると、困ったようにその人は眉を下げて視線を落とした。
「で、先生は今日も忙しいわけ?」
職員用のキャスター付き椅子をごろごろと遊ばせながら、四ツ柳は近づいてくる長身の男を見上げる。
「忙しい……う、まあ、そう、そうだな! まとめる書類とかがたまってるんだ」
「健康診断時期はもう過ぎたし、体育祭があるわけでもないのになぁ」
なんでだろうなぁ、とやや咎めるように四ツ柳は口をとがらせて晦を問いただす。
「んん。先生にも先生の仕事がいろいろあるんだよ……」
晦はしどろもどろになりながら、視線を彷徨わせて棚の中に仕舞っていた瓶を取り出した。
「飴、いるか?」
「飴はいる」
餌付けで気を逸らそうとしてんなこいつ……と思いながら、四ツ柳は保健室に常備されるようになったハッカ飴を受けとる。成長期真っ盛りな年頃の男子高校生の燃費は異常に悪いのだ。飴の一つや二つで買収されることもなくはない、かもしれない。
「……ええと、最近、調子はどうだ?」
「最近? どうって言われても、何も変わったことはないけど」
距離感を図り切れないような様子で、しどろもどろに晦が訊ねる。やはりその様子に、何かが変だと四ツ柳は首を傾げた。
四ツ柳に質問への意図へ心当たりがないことを告げると、晦は「そうか。四ツ柳になにもないなら……いいか」と、ほっと胸を撫でおろした。
「変わらないのは正直困るとこなんだけどな。忙殺されてるせんせーに比べちゃ平和よ平和」
「平和なのはいいことだよ。……最近夢見が悪くて、気にし過ぎていたのかもしれない」
「夢……? それってどんな夢?」
思いがけず、抱えていたらしい悩みを吐露されて四ツ柳はほんの少し目を丸くする。先生は随分怖がりな性分ではあるだろうし、悪夢に魘されているのだとしたら気にはするんだろうな……と抱えるだろう理由には納得がいく。
「うーん。すごく豪華な洋館にいる夢。そんなとこにいる夢、見たことないか?」
やや言い辛そうに、曖昧な表現で晦はそういった。
洋館。ホラーゲームなどによくある場所を夢見てしまっているのだろうか。
夢かぁ……と思い起こしてみるが、四ツ柳には思いあたる節は見つからなかった。悪夢どころか、最近は新生活で慌ただしくしているせいなのか、夢ひとつ見ない。ぐっすりと眠れている証拠なのだろう。
よく見れば、晦の目にはやや疲れが見えていた。しぱしぱと目をしきりに瞬かせており、あまり眠れていないだろうことが伺える。
「異界とやらに、また呼ばれてるのかとちょっと気にかかったんだ。だから、念の為に四ツ柳もしばらくここに来ないほうがいいぞ」
困ったようにそう言う晦に、ああそうか、と四ツ柳は頷いた。
「前兆かもって話か。それなら一層、一人で居るべきじゃないんじゃねーの?」
巻き込みたくないとか、そういう心配なら必要無いんだけれども。晦は四ツ柳の事情も知る由は無いのだから、先生という立場上そう思ってしまうのだろう。
四ツ柳のその言葉に、晦は笑って曖昧に返していた。
「四ツ柳はあんまり夢見ないタイプか?」
年下どころか自身の教え子に心配されるのは、良い心地ではないのだろうな……と四ツ柳はあからさまに逸らされていく話題に乗ることにした。
保健室から追い出されることなく、こうして面と向かって話してくれただけでも良しとしよう。
そうして、二人は久しぶりのように感じる保健室での対話に花を咲かせながら、いつの間にか陽が落ち切るまで話し込んでいた。
保健室の扉を施錠し、学園から寮まで続く石畳を二人で歩く。
木々の間を通り抜けても、あの狼の遠吠えが聞こえてくることはなかった。
二.エントランス
寮の自室にて明日の用意を整え、四ツ柳は時計の針が天辺を過ぎる前にいそいそとベッドへ潜り込んだ、はずだった。
どうにもベッドに寝転がっている……という状況ではなさそうな己の身体を身じろぎさせ、ぼんやりとした心地のまま、四ツ柳はうっすらと目を開けた。
そこは、見知らぬ洋館のエントランスだった。
入り口近くの来客用ソファーに座らされていたらしく、隣には目を擦り、二、三度瞼を瞬かせて目を覚ます晦の姿が見えた。
一体何がどうなっているのだと、四ツ柳はこわごわとあたりを見回す。
地面にはふかふかの絨毯が敷かれ、吹き抜けの天井がぽっかりと口を開けている。エントランス中央にどしりと構えた階段は、左右に続く二階の回廊へと繋がっているようだった。
こんな洋館は間違いなく初めて見る場所のはずなのだが、妙に馴染み深いような感覚を覚え、四ツ柳は深く深くため息を吐いた。
「あ! 夢か……」
「夢じゃ、ねぇな」
ソファーに座り込んでいた晦と四ツ柳が、同時に言葉を発する。
ようやくそこで四ツ柳の存在に気がついたのか何なのか、晦がキョトンとして「夢じゃない?」と呟いた。
「夢だよ。先生が最近良く見てた夢の形式と一緒だ……」
きっぱりとそう言い切って、晦はしゅんと肩を落とす。
「先生の夢って、こうやってハッキリ知ってる人間の形が見えたり、感触があったりすんの?」
晦が言うように、現状が夢だとするならば違和感があると四ツ柳は言葉を反する。夢にしてはソファーの感触があまりにもリアルだった。やや硬めの緩衝材を押せば、弾力を掌に感じる。こうやって明瞭に対話が出来るのも、四ツ柳の知っている夢とは少し違っていた。
絶対にないことではない、のかもしれないけれど。
「ああ、うん。最近の夢はずっとそうだった」
「うわー……寝てても体力使いそう」
晦はそう伝えながら、目線を落として手を握ったり開いたりを繰り返す。ここが夢かどうかの感触を確かめているのだろうか。
やがて困ったように首を傾げて四ツ柳の方を見た。
「最近、ずっと夢に四ツ柳がでてたんだ。それで……」
「俺、夢の出演料貰った覚えないけどな」
四ツ柳が茶化すように言葉を挟んでも、晦から不安めいた困惑の表情が和らぐことはない。晦はやや躊躇うように言葉を選んで、ええと、と言葉を続ける。
「夢、じゃないなら異界かな? だったら、ここは、ここにいる者の記憶や感情に干渉する……場所だと思う」
晦の言う通りここが異界であるならば、自分たちはどうやって迷い込んでしまったんだろうか。夢が異界の入り口にでもなってしまったのだろうか、じゃあ、何がどうして自分たち二人が呼ばれてしまったのだろう。
む、と黙り込んで四ツ柳は口元に片手を当てて考える。
「夢じゃないなら……現実になる前に、早く逃げよう」
「ん? あーそうだな。前みたいに襲ってくる何かが現れたら厄介だし、警戒してくか」
晦の言葉を合図に、四ツ柳は考えるのをやめてソファーからぴょんと立ち上がる。いつでも動けるようにと、足や両腕をうんと伸ばして体を解す。
改めて、周囲を見回した。
シャンデリアとソファーがある以外は酷く殺風景な場所で、扉もここからでは幾つかしか見当たらない。
まずは玄関扉らしい大扉に手をかけて引っ張ってはみるが、当然というようにその扉が開くことはなかった。月光を淡く取り込む窓に近づきコンコンと叩いてみても、どうにも簡単に割れそうな気配はない。
「現状、扉くらいしか見えないんだよな」
さて、どこから調べて回ろうか。
ここが異界であるとするならば、と四ツ柳は晦に手を差し出す。
「せんせー、視界のお裾分け宜しく」
「ああ、ええっと」
これで視界が変化すれば、異界確定だ。「何か変わったか?」と聞く晦の声を聞きながら、四ツ柳は瞬きをする。
瞬間。1秒にも満たない間に起きた変化に、四ツ柳は思わずぎょっとして身をのけぞらせる。
「いや、見えてるもの違い過ぎだろ!?」
「お、これ見えないやつだったのか」
ぽっかりとあいていた筈の吹き抜けの天井には巨大なシャンデリアが吊るされ、廊下の壁には様々な絵画がずらりとかかっている。壁に沿うように配置された棚や玄関扉横に配置された花瓶など、目に見えるようになった家具たちはどれも上等で、まるで映画のセットのようだった。
にも関わらず、なぜか酷く馴染み深く感じる。
四ツ柳はレッドブランチスクールの学生の中では、庶民も庶民だ。こんな豪華な調度品をお目見えしたことなど人生の中で一度もない。それなのに、だ。
「昨日うっすらと話してたから、視界が違うんだろうなぁとは思ってたけどさ……。中身が入った、感があるな」
「やっぱり、異界、なんだなぁ」
晦の手を引きながら近くを見回していく。
ただの木の板のようであった近くの扉には、きちんとプレートがかかっていることも確認ができる。プレートには『永遠を誓った者のみ、この扉をくぐること』と書かれているが、何のことだろうか。
「どこから、見ていこうか」
後ろから晦が言葉をかける。手を繋ぎながらも、何故かやや距離をとるようにしているのが気にかかる。
「そーだな……。このプレートには割と怖い感じの文が書いてあるし」
「あーうーん。そう、だよなあ……」
「存在しないものを誓うってのは、けっこー怖いんだよな」
「たしかに永遠? ってなんだろうな。何を誓うんだ?」
プレートを眺めながら、この扉は後回しにするべきだなと思った。どうせこの先は只のダイニングなのだし、情報を得るなら1階にある書斎に行ったほうが収穫はありそうだ。
そこまで考えて、四ツ柳ははたと首を傾げる。
何故この先がダイニングで、書斎が1階にあると知っていたのだろうか。何かの機会に、訪れたことがあったのだろうか。
思い返そうとしても答えは出て来ず、異界の影響なのだろうかと眉間に皴を寄せた。
「あー、落ち着いて見て回れる状況のうちに、先に本でも漁りに行かねえ?」
「本。そうだな。四ツ柳はいつも落ち着いてるなあ」
「落ち着いて、なぁ。現状まだ危ない感じはしないから、だろうと思うけどな」
四ツ柳にも不安が無いわけではないが、始終何かに襲われてた前回の異界に比べれば、危機的状況にある感覚では無いのは確かだ。
それでも晦は何処かに不安を覚えているようで、とぼとぼと四ツ柳に手を引かれて歩いていた。
三.書斎
1階の廊下を進んだ先にある扉に手をかけて、中を覗く。
書斎の中は三方に本棚がおかれ、様々な本が所狭しと並んでいる。並べられた本の背表紙を眺め見れば、難しい読み物から子供向けの物語、手作りでまとめたアルバムなど、雑多に置かれていることが一目見ただけでもわかる。
中央にある樫のデスクには書類が乱雑に積まれており、その手前に置かれた椅子は、主が戻ってくるのを待ち構えていたかのように座面をこちらに向けている。
招かれるように四ツ柳が椅子に腰かけると、まるで誂えたかのように成長途中の身体にフィットした。
それはそうだ、だってここは自分たちの家なのだから。
自分の為の椅子が座り心地が良いのは当然なのだ。何もおかしなことはない筈だ。
「これは……多分同じ状況に陥った人のものだな」
ぺらぺらと一冊のノートを手に取って呟く晦の言葉に、四ツ柳はハッとした。
今、自分は何を考えていたのだろうか? ここが自分たちの家? とんでもない。自分たちは生徒と先生であって、暮らしているのはそれぞれの寮だ。
頭ではわかっている筈なのに、どうにも此処が自分の家であるような気がして気持ちが悪かった。
「何、それ」
ぶんぶんといやにこびり付く考えを振り払うように頭を振って、四ツ柳は晦が見つけたノートを見せてくれとせがむ。
ノートには、誰かが書き記したのであろう言葉が綴られていた。
”私たちは気づけばこの館にいました。玄関の外に異界の手口があるのは突き止めたんですけど、鍵を探すうち、ずっとここで暮らしていた気になって……。幸せだったのに、あの人は私を置いていなくなると言いました。指輪がないからって、絶対に許せない!!
――だから、私は、この唯一見つけたナイフで……”
文章から滲み出る殺意が、まるで自分に向けられたもののように思え、四ツ柳は思わず晦と繋いでいた手をばっと離す。
その衝撃で、ノートはパタンと床に落ちてしまった。
晦は離された手に目線をやり、少し寂し気な表情を浮かべながらノートを拾い上げ、ぱんぱんと埃をはらって四ツ柳に手渡す。
晦先生はこの洋館の夢を見たと言っていた。俺が夢の中に出て来るとも。……と、そこまで考えが至って、四ツ柳はおずおずとノートを受け取りながら晦の顔色を伺うように訊ねた。
「夢……どこまで、同じなんだ?」
「その、えと、あんまり……不安に思わせたらと思って黙っていたんだが……。この状況がわからないと困るよな……」
歯切れが悪そうに、けれどもノートの内容が出てきたことからか、観念して晦はぽつぽつと夢の内容を語りだす。このノートに書かれている事と。殆ど同じなのだと。そうして、ナイフで、と書かれた文章を指さした。
「でも先生そんなことはしたくないし、そんなつもりも全然ないからな」
晦に言葉をかけられて、それでもその言葉が四ツ柳にはどうにも心に響かなかった。信じてもいいものかと、疑いの気持ちが胸に過る。
「……俺もずっと此処にいた、気がして、ならないんだ」
先ほどから感じていた、この洋館の全てを知っているような感覚。この書斎の主が自分であったかのような感覚。気持ち悪くて仕方がないのと同時に、酷く恐怖を感じていた。
「ここであったことは、もしかしたら実際誰かにあったことで……それの再現が夢だったのかも知れない。今、四ツ柳には、ここに居た誰かの感情や記憶が入ってきてるのかもしれないな」
心配そうに四ツ柳の顔を覗き込む晦が手を伸ばすが、その手は四ツ柳に触れることなく、迷うように宙を彷徨ってから降ろされる。
「これが別の奴の記憶で、感情だったとして……」
四ツ柳は再び開いたノートの一文に目線を下ろし、それから晦の目を見る。
「いまの先生が、あんたが呑まれてない保証なんて何処にあるんだ?」
「確かに。今は……そんなことはない、としか言えないんだけど」
晦は上げられた四ツ柳の顔を見て、また巻き込んじゃって悪かった、と困ったように笑って言う。
それは四ツ柳を安心させる為なのか、はたまた別の要因なのかは知りようが無かったが、こんな状況であれば、この人は真っ先に不安を抱えて始終怯えた表情を浮かべそうなものなのにと不安が膨らんだ。
でも、それが四ツ柳を安心させるための笑顔であったならば、疑う自分が酷く恰好が悪すぎるなと視線を床に落とした。
「なにかあったら、すぐ逃げてくれ。でも、まだ大丈夫だといえる間は……距離を開けてでもいいから、一緒に来てくれると嬉しいかな。四ツ柳をこんなところに置いておきたくないから」
この状況で俺が言っても、説得力ないよなあ……と寂しげに苦笑する晦の姿に、異界の雰囲気に呑みこまれているのは自分だけなんじゃないかと四ツ柳は酷く恥ずかしくなった。
「……っ! だぁーーもう! あんたと一緒で良かったよ!」
頭をがしがしとかいて、椅子から立ち上がって晦の手を掴む。晦が掴まれた手を見ながら「無理しなくて、いいんだぞ?」と目を丸くする。
「異界に引き込まれるのは、あんたのせいじゃない。先生が謝る必要なんて何処にもないんだよ」
晦に殺されてしまうのかもしれない、と無意識に考えてしまっているのか。恐怖に震える手を隠し通せない自分に唇を噛みながら、四ツ柳は俯く。
「くそ、最後まで諦めないって決めただろ、しっかりしろ俺」
四ツ柳はそう呟いてから、しっかりと顔を上げて晦を見た。
「……四ツ柳は、強いな」
「馬鹿みたいにガチガチに塗った、メッキみたいな強がりだけどな」
正直、今この瞬間にでも殺しにかかって来るのではないかと疑う気持ちが四ツ柳の中で渦巻いていた。怖くて怖くて仕方がない、けれどそれが異界の中で立ち止まって良い理由にはならない筈だと、四ツ柳は自分に言い聞かせる。
「まー、先生も変に抜けてるところあるからな、異界に呑まれにくいかもしれねーし?」
「抜けて……? そうか?」
若干不服そうな表情を浮かべながらも、晦は四ツ柳の手を引いて書斎の扉を開く。
一先ずは1階を調べて回ろうと、四ツ柳は先に進む晦に告げる。確か1階には書斎とダイニングの他に倉庫があったはずだ。何か役に立つものがあると良いのだけれど。
「頼りないだろうけど……あまり一人で無理しないでくれよ」
向かう先を伝える中で、また晦は困ったように笑って、そう言った。
こうやって優しく気遣ってくれる先生が、生徒を刺し殺すような真似をする筈がないのだけれど。やはりその笑みだけでは四ツ柳の不安が消えることはなかった。
四.回廊
倉庫にしていた筈だと、ないはずの記憶が指し示す扉に手を繋いだまま二人で向かう。
扉を開けようと取っ手に手をかけようとしたところで、あ、と晦が声を上げた。
「鍵だ。厳重だな……」
「倉庫に鍵かけてんじゃねーよ!」
倉庫に鍵をかけたような記憶さえもが蘇ってくるのだから腹立たしい。そういえば、厳重に鍵をかけたような気がする。8桁の数字とアルファベットを入れる場所がそれぞれある厳重な鍵だ。貴重品か何かでも仕舞ったのだったっけ。
怒る先が何故か自分にしか無い気がして堪らなくて、四ツ柳は思わず鍵に向かって怒鳴り声をあげた。
「はぁーあ……仕方ねぇな、2階に上がるか……」
「あはは。こういうの、ゲームにありそうだよな」
思い描いていた探索のルートを潰されて肩を落とす四ツ柳を、微笑ましいものを見るかのように晦は軽く笑う。
「ゲーム? 先生ゲームすんの?」
「すごくするわけじゃないけど、前の学校とかだと子供達の話題にでてくるのとかはやったりしたなぁ」
「ふぅん……。そういえば今どんなの流行ってんだろな……」
とんとん、と軽快な音を立てて2階へと続く階段を登っていく。歩きながら話す内容は保健室で話す内容とさして変わらないもので、此処が異界であることを忘れてしまいそうだった。
四ツ柳は遠い昔のように思える記憶を漁っては、どんなゲームをしていたっけなと遠い目をした。
思えば、丸1年近くゲームは触っていなかった。受験に必死になっていて、最後にゲームをして遊んだのは中学2年の春休みの最中だっただろうか。
「ここの学校はまた雰囲気違うからなあ。四ツ柳はゲームはあまりしない方か?」
「友達と対戦ゲームはよくしてたよ」
友達と家に集まってはコントローラーを握って騒いで、騒ぎすぎて少しばかり母親に怒られて。そんな楽しかったはずの思い出も、今思い出すと苦しくて仕方がなくなって、四ツ柳は閉口して押し黙った。
その様子の理由をくみ取り切れない為か、晦は「……? そう、なんだな」と首を傾げた。
話ながら階段を登りきれば、やがて沢山の写真が飾られた回廊に辿り着く。
写真は笑顔の人々が映っている楽しげなものばかりだが、鼻から上が完全に黒く塗り潰されており、誰が映っているのかは皆目見当はつかない。
にもかかわらず、これは自分たちを映したものなのだと、自然と頭が処理をしていた。
これは、自分達の写真のはずだ。
四ツ柳は困惑した表情を浮かべながら写真を手でなぞる。
写真を撮った時の思い出が、気持ちが湧き出てくる。これは森にピクニックに出かけた時の写真だ。これは記念日に料理をたくさん作って、一緒に食事をした時の写真。
そのどれもが記憶にない筈の記憶であることは理解できるのに、やはり自分のモノのような気がする。どっちつかずの異物感が、胸に溜まっていくようだった。
「四ツ柳とは写真は撮ったことは……なんというか、スマホが主流だよな。わざわざ現像して飾るのも見なくなったけど……逆に流行ってるのかな?」
やはり晦も四ツ柳と同じような違和感を感じているのか、むむと難しい顔をしながら写真を眺めている。確かに、言われてみれば写真を現像するという習慣は無い気がする。
「写真の現像? 女子が昔騒いでたことあったかなぁ……なんだっけ、ちぇき? すげーオモチャみてえなカメラで撮ってんの」
「ちぇき。使い捨てカメラみたいな?」
「カメラについては、よくわかんねぇな。物心ついたときにはスマホだったし」
「時代を感じる……こんなところで……」
ジェネレーションギャップにやや慄く晦がおかしくて、四ツ柳が少し顔を綻ばせると、晦はほっと安心したかのように微笑みを返す。「……よし! ここを出たら、ちゃんとちぇき? で撮ってみよう」と、二人して存在をよく知らないトイカメラの話をしながら、写真をくまなく眺めていく。
何気なく、四ツ柳がぺらりと写真を1枚捲る。そういえばこの写真、何か大切な日だったような気がするのだ。
その写真がいつどのような意図で撮ったのかの言葉は記載されてはいなかったが、”20210207”と、8桁の数字が殴り書かれていることに気がついた。
「あっ! あった! 番号!」
思わず飛び上がるほど喜びかけて、倉庫にあった鍵は数字とアルファベットの組み合わせだったことを思い出して肩を落とす。
厳重だった、あの鍵は。
「ん。番号、さっきの倉庫の?」
「さっきの。あとは4文字のアルファベット見つけねえと……」
「こういうの、脱出ゲームってやつみたいだな!」
ぬか喜びに肩を落とす四ツ柳とは反対に、嬉しそうに晦は言う。まるで異界に迷い込んでしまったことを忘れているかのように、楽し気に。
「笑ってられる状況じゃねぇと思うんだけど……。ほんと、先生のそういうとこだわ……」
晦はそういうところがあるから、異界でも自分を見失わずに保っていられるのかもしれない。思いがけず良いパートナーに出会えていたのかもしれないと、四ツ柳はまた表情を穏やかなものに戻して二階の先へと足を進ませた。
「ついでに二階、全部見とこうぜ」
回廊の奥にある扉を指さす。
あの扉の向こうには、二人の寝室がある筈だ。
五.寝室
廊下突き当りにある質素な扉に手をかければ、四ツ柳の記憶通りに寝室が二人を出迎えた。
暖色の壁紙が張られた部屋の中央には、数人が寝そべることが出来そうな程に大きな天蓋ベッドが備え付けられており、その上には大小さまざまなクッションが置かれ、非常に寝心地が良さそうだ。
ベッドサイドにはドールハウスやぬいぐるみが飾られており、ひどく懐かしい心地が湧き出てくる。自身がもつアイデンティティと湧き出た感情がイマイチ合致しないこの現状に、四ツ柳は気持ちわりぃなこの感覚、とこめかみを手で抑えながら呟く。
隣にいる晦は、深刻にその感覚を捉えてはいないのか、「くま……」と興味津々にぬいぐるみに触れ、柔らかさを確かめるようにもにもにと揉んでいる。
小さな子供が両手で抱えていそうなファンシーなクマのぬいぐるみだが、四ツ柳には覚えがないだけで、晦の私物だったりするのだろうか……などという考えが頭に過る。
「もしかして好きなの?」
「……まあ、嫌いじゃない」
思わぬところで趣味がバレてしまった、というように恥ずかし気に目を逸らし、晦は慌ててぬいぐるみを元の位置に戻す。
大きなガタイをした男の趣味がぬいぐるみを愛でることなのは意外だなとしげしげと眺めつつ、のんびりとした性格をしている晦がぬいぐるみに囲まれている姿は容易に想像できた。
そういえば、とはたと思い出す。
保健室に可愛らしい黄緑色をした何かのぬいぐるみが置いてあった気がする。前任の保健室の先生が置いて行ったものかとばかり思っていたが。
「保健室にあったぬいぐるみ、もしかして先生の私物か!?」
「あれは、クレーンゲームでとったやつだから!」
私物だったらしい。
たまたま、とれただけだから! と晦は繰り返し主張するが、おそらく欲しくて筐体に向かったのだろう。
「へーへー、そういうことにしておきましょーね」
「そんなことより! アルファベット、あるかもしれないだろ!」
言い合いながら、部屋の中を二人してひっかきまわし始めた。
ベッドやらクッションやらの布を片っ端からひっぺがしたり、ドールハウスの中を覗きこんでみたり。
探索の最中に晦から手を離せば、やはり寝室は簡素な調度品の少ない埃っぽい場所へと様変わりをし、此処が異界であることをまざまざと知らしめてくる。
「ん。なんだ」
サイドテーブルの引き出しを開けた晦が、小さな何かを取り出して光にかざす。
鈍く光を反射するそれは、二つの銀色の指輪だった。
指輪を手に持つ晦の指先を覗き込めば、内側に『永遠を誓う』と文字が彫られていることが視認出来る。
「永遠を誓う……。これか? あの扉に書いてたのって」
「病める時も健やかなるときも~って結婚式でよく聞くアレじゃん」
その文言がシンプルな指輪に刻まれているということは、結婚指輪か何かかもしれない。
四ツ柳自身は両親がつけている物以外で見た記憶はあまりないが、きっとその類の品物なのであろうということは予想が出来た。
指輪を見つめる晦が、むむと難しい顔をしてから「これは」と呟いてから四ツ柳に指輪の片割れを渡す。
「たぶん、つけると同じものが見えるような、気がする……」
「ああ、異界ではそういうアーティファクト? だったか、そんなのが発掘されることがあるんだっけ。そういうやつ、か?」
この学園の存在を教えてくれた、気の強そうな女性から伝え聞いていたことだった。
学園に入ってからは顔を見ることはなくなったが、四ツ柳は彼女から、学園を含む異界の話やアーティファクトの説明をして貰ったことがある。口止めとアーティファクトを発見した際には受け渡すという書面を書かされた記憶があるし、随分と偉い人……だったのだと思う。
「そうなんだ?」
「指輪がそう、なのかは確信ねーけど」
直感的にか、危ないものではないと判断したらしく(あるいはその危機感が今の晦にあるのかは甚だ怪しいが)、晦は自身の指に嵌めて眺める。
四ツ柳は指輪をおずおずと見ながら、不用意につける晦にぎょっとする。見た目には指輪を付けた晦が変わった様子には見えない。
「でもこれで、あの扉を通ってもいいのかもな」
「許可証みたいなもんか?」
わくわくとした様子で、晦は指輪をつけた手を見せる。
『永遠を誓った者のみ、この扉をくぐること』と書かれたダイニングの扉の話をしているのだろう、確かにあの扉には手を付けていなかった。
状況の打開にはなるかもしれないと、四ツ柳も指輪をつけてみることにした。
どの指につけるのか正解なんだ? と迷って晦の顔を見れば、晦は「こういうのは、左手の薬指だぞ」と答え、指をトントンと軽く叩かれる。
右手に付けようと、左手で摘まんでいた指輪を右手に持ち替えて、言われた通りにすっと左手の薬指に通す。
指輪を指に通せば、殺風景に見えていた寝室が手を繋いだ時に見えていた光景へと変貌下する。
おお、と感嘆の声を上げて四ツ柳は思わず指輪を見る。
本当に、アーティファクトだったようだ。
「アイテムを集めたら先にすすめるってゲームなら、こういうのちゃんと揃えておいたほうが正解かもだろ」
「うん……? 正解、ねぇ」
つける指の場所にも正解があるかもしれない、ということだろうか。生憎、四ツ柳は指輪を付ける場所に関してはとんと知識が無かったが、つける指の場所によってペアリングが示す両人の関係性が変わって来ることは、ぼんやりと覚えていた。
「結局、元の持ち主っぽい二人は、どういう関係かはわかってねえんだよな」
同じ場所で暮らしている二人。関係性はおろか、性別、年齢、性格すら把握できていない。
「ん、元の持ち主か。この家の住人、なら夢の人たちだよな? それなら多分」
「たぶん?」
思い当たる節がある……といった様子で晦が答える。そう言えば似たような夢を繰り返し見ていたと言っていたっけと四ツ柳は晦を見て答えを待った。
「将来を近いあった仲かな? そんな感覚だった」
言ってから晦は自分の言葉にひっかかりを覚えたのか、ぐぐ、と体ごと首を傾げる。
将来を誓い合ったっつってもふわふわしてんなぁ……と四ツ柳は手を頭の後ろに回して、再びぐるっと寝室を眺めた。
この場所には人間の痕跡がしっかりと残っているにもかかわらず、自分のものだという意識が浮上するせいだろうか、元の持ち主を想像することがひどく困難だった。
「でもまあ、引き摺られてんのなら俺たちと近い関係性なのか?」
今回は唐突に異界にほおり込まれたわけだし、何かしら異界に引っ張られる要素が自分たちにあったのかもしれない。例えば、四ツ柳と晦の関係性を示すならば、生徒と先生の関係性だったのだ……とか。
「どう、かな……まあ、夢の感覚だから……。近い……?」
四ツ柳の呟きを拾って、晦はまたひっかかりを覚えたような表情をして天井を見上げてから、ぶんぶんと首を振る。
そそくさと扉の方へ向かっていく晦の表情の変化を読むことが出来ずに、四ツ柳はいぶかる気持ちになって頭をかいた。
実際の身体は寝てしまっているのか何なのか、いつもよりも頭が回っていない気がする。
「なんか、繋がんねえんだよな」
既に寝室の外に出てしまった晦が自身の名前を呼ぶのを聞いて、四ツ柳は慌てて寝室を後にした。
六.ダイニング
二人で肩を並べながら、一階へと降りていく。
手を繋がずにあたりを探索できる状況であることが、いっそう四ツ柳にここが懐かしい場所であるような心地にさせていた。
こうやって話しながら朝食をとりに一緒に一階へ降りたよな、なんてありもしない記憶までもが溢れて来る。
階段を降りきって、気にかけていたあの扉の前に辿り着く。
『永遠を誓った者のみ、この扉をくぐること』
「で、とりあえず条件のもの? つけてるからオッケー……なのか?」
異界に従うのも癪なんだけど、と呟きながら扉に手をかける。
扉に鍵はかかっていないようで、キィと金属が擦れる音を発しながら向こう側へと四ツ柳達を招き入れる。
部屋の中は四ツ柳が想像していた通りにダイニングが広がっていた。
二人が腰かけられる椅子に、平たい長机。長机の上には、作られたばかりらしい料理が並べられている。
メインディッシュにはマッシュポテトの壁の中に魚ベースのクリームソースが流し込まれ、ぷっくりと太った小エビが乗せられたフィッシュグラタン。サイドメニューには白身魚を揚げたのであろう白いタルタルソースがかかっているフライがある。今この瞬間にどうぞ召し上がれといわんばかりに、湯気を立てたオニオンスープからバターの優しい香りが鼻をくすぐる。
わぁ、と目を輝かせながらふらふらと晦が席に着く。晦がふかふかのパンを手にして割れば、焼き立てなのか、パンからもほのかに湯気が立つ。
嬉しそうな顔をしながら、晦がそのパンを口に運ぼうとした瞬間、同じように続いてふらふらと席についてしまっていた四ツ柳がテーブルを叩いて、ぎっと晦を睨みつけた。
「先生」
「まだ、食べてないぞ……!」
「まだっつったな」
呆れたような表情を向けると、おず、と晦がパンを皿の上に置いてしゅんと項垂れる。
「う……ちょっとお腹空いてこないか?」
「安全とも限らねーだろ、何入ってんのかわかったもんじゃねえ」
それに、と言葉を続けようして四ツ柳はテーブルの上をじっと見る。誘われるように席についてしまった。いくら館内を探索し続けて疲弊をしているとはいえ、得体の知れないものを口にしようと、二人ともが席についてしまったのは罠のように感じて仕方がなかった。
視線の先には沢山の食欲をそそる料理と、未使用の食器が並べられている。
「まあ、そうだけども」
言わんとしていることはわかる、と晦はポケットのなかを探って何かを取り出す。運が良ければ持ち歩いていると言っていた飴だった。
「四ツ柳もほら」
「……いいよ、仕舞っておいて」
「ん、そうか……」
しゅんと落ち込む晦の他所に、四ツ柳は視線をテーブルの上から逸らさず、不自然に他の食器たちから飛び出すようにして置かれた一本のナイフへと視線を向けていた。
”――だから、私は、この唯一見つけたナイフで……”
ノートに書かれた最後の一文がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
もしかしたら、晦にこれをとられてしまうかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、掠め取るように置かれているナイフをひっつかむ。
掴んだナイフはなんの変哲もない鈍色をしたナイフであった。調理されたフライを切るために用意されたそれは、さして切れ味は良さそうではなかった。
自分が神経質になってしまっているだけかと四ツ柳がテーブルの上に置き直そうとして、気がつく。
M.Y.T.T、と、アルファベットが柄に刻み込まれている。
「もしかしてアルファベットって、これか?」
四ツ柳が声をあげて、なあ、と晦に伝えようとした矢先だった。
ナイフを握っていた四ツ柳の手から金属の重みがふっとかき消える。なんだと手元に視線を下ろせば、先ほどまで確かに持っていたナイフが忽然と姿を消していた。
手放した記憶も、近くにある様子もない。
どういうことだとばっとあたりを見回すと、「なんだこれ?」という晦の声が前方から聞こえる。
「……ナイフ? えっと、このアルファベット、倉庫で使えるやつか?」
「は……? なん、で……? 今俺が……」
がたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、思わず一歩後ずさる。
四ツ柳の様子を見た晦が慌てて「ん、あ、ごめんごめん」とテーブルにナイフを置いた。
「とりあえず、倉庫にはいけそうだけど……四ツ柳。調子、大丈夫か?」
「確かに今俺が先に、先に掴んでたんだ」
心配そうに覗き込む晦を尻目に、再び奪うように置かれたナイフを手に取った。
ぎゅっと握り込んで離すものかと籠めた力もむなしく、瞬きをしている間にナイフは四ツ柳の両手から何処かへと消えてしまう。
「ん、そうなのか? 悪い、盗るつもりはなかったんだけど」
晦も何が起こっているのかはわからないのだろう。様子のおかしい四ツ柳を宥めようと椅子から立ち上がり、揺れた白衣が椅子に擦れる。
カン、と椅子に擦れた白衣から鳴るはずのない金属音がした。
「絶対に、お前らの思い通りになんてさせねぇからな……!」
どうしたって、晦のほうへナイフが移動してしまう。異界が、自分を殺そうとしてきているのか。
四ツ柳は恐怖と怒りをないまぜにした感情をぶちまけるようにこの場に叫ぶと、座っていた椅子を倒し、ダイニングから飛び出した。
「え、なんで……、四ツ柳!? どこいくんだ!?」
背後から四ツ柳を呼ぶ晦の声が聞こえてくる。
他人にナイフを向けられるかもしれないという恐怖も勿論あったが、自分のモノでは無い感情が自分のモノとして心に溜まっていくような感覚が、更に四ツ柳を苛立たせていた。
早く、早くここから出なければ、と。
七.倉庫
ばたばたと、廊下突き当りのドアについている鍵にくってかかるように、がちゃがちゃとパスワードを入力していく。
”20210207 MYTT”
集めた数字とアルファベットを入力すれば鍵はカチリと音を立てて外れ、ドアノブに力を入れれば、すんなりとドアは開いた。
中に入ると、館に引っ越した時に用意した調度品や、子供の頃遊んだおもちゃなどが所狭しと並んでいる。木馬や勉強机など、大きな物がほとんどだ。
小さなころにこれを使って、一緒にごっこあそびなんかやっていたっけ、と四ツ柳はおもちゃの剣を思わず手に取って、身を固くした。
——違う。そんなこと、あった筈がない。
部屋の隅におもちゃの剣を力任せに投げ捨てて、何かないかと倉庫の中を引っ掻き回す。
「大丈夫だ。早々に出口さえ見つければ書き換えられるなんてことなんかない、早く出口の鍵を、玄関の外が異界の出口だって書いてあった、それさえ見つけられれば」
四ツ柳は自分に言い聞かせるように、ブツブツと呟きながら倉庫を引っ掻き回していく。あれでもない、これでもない。うず高く積まれた不要な品々をひっくり返すたびに、埃が舞った。
ギィ、と扉から誰かが入って来る音がする。
音のする方へと顔を上げると、少しばかり不安そうに部屋を覗き込む晦の姿が見えた。四ツ柳がいきなり駆け出してしまったから入るのを躊躇っているのだろうか、「何かあったのか?」とおずおずと聞いてくる。
幸いにも、変化の無さそうな晦の様子に安堵しつつ、四ツ柳は部屋の外で入りづらそうにしていた晦の手掴んで中に引き入れる。
「出る方法、探せよ」
「わ」
急に引き入れられて危うくバランスを崩しそうになりながら、晦は倉庫の中へと踏み込む。舞うほこりを手で払いながら、倉庫の中をきょろきょろと見回す。
「玄関の鍵とか、扉を開けられそうなものを見かけたら言ってくれ」と四ツ柳は晦から手を離して、再度倉庫の中をひっくり返す作業にあたる。
うーんと頬をかきながら、晦も四ツ柳とは反対の場所から大きな荷物を退け、あたりをくまなく探しはじめた。
「ここ……なんか懐かしい感じするな?」
「俺たちの感覚じゃねぇんだ。騙されんなよ、あんたぼーっとしてんだから」
「んん、ぼーっとしてるはよく言われるけども」
「そのぼーっとしてる部分が、逆にココと相性よかったのかもしんねぇけどな」
ここに来てから、いやに四ツ柳は焦りを募らせていた。それは思考が普段に比べて上手く働いてくれないせいもあったかもしれないし、目に見えた危険な相手が未だ居ないからかもしれない。
それに比べ、晦は驚くくらい平常運転だ。話題に出す内容も、異界のこと以外は保健室で話すような内容ばかりで。
「む……それは、褒められてる? 四ツ柳は、なんというか、今日は焦ってる? 感じあるな」
「今回はばっちり褒めてるよ。俺のことは気にすんな」
気にするな、と言われても納得がいかないのか、ううんと晦は唸り声を上げる。
ただ、その唸り声はほどなくして鳴りやみ、かわりに「あ、これか?」と嬉しそうな声が同じ口から発せられる。
「あったか!」
ばっと四ツ柳は顔をあげ、ぱたぱたと晦へと駆け寄った。
晦が手に持つ鍵は、玄関扉の鍵で間違いは無さそうな大きさをしており、錆か何かの色が付着して赤黒く汚れていた。
はい、どうぞと晦は四ツ柳に鍵を受け渡し、鳴りを潜めていた唸り声を喉の奥から引き戻す。
「これからまだ外に出ていくわけだし。こういうのは最後に大変なイベントがあったりするものだし……」
イベント、というのはこれの異界を脱出ゲームに見立ててのことだろうか。晦は腕を組んで四ツ柳を眺めて考え込む。
「こんだけイベント挟んでおいて、ラストが鍵探しだけ、なんて、確かにねえよな……」
つぶさに観察されるのは居心地が悪い。ただでさえ、わけのわからない焦燥感が募っているというのに。
目的のモノは手に入れたんだからいいじゃねえか、と晦を上目に睨む。
「お腹すいてるわけでもない? 痛いところは? ……何か気にかかることでもあるのか?」
それにもかかわらず、晦は真剣な表情で四ツ柳と向き合った。困惑している様子であることを確認すると、晦は倉庫の中を少し歩いて、がらくたに隠されていた小さなソファーを引っ張り出して来る。
晦はやおらにソファーへと座り、ぽんぽんと座る様にソファーの空いた部分を叩く。
「……先生がなにかしたとか? ぼんやりしてるのは確かだし、知らずに余計なことを言っていたら謝りたい。できればもう同じことをしないようにしたいんだ」
「だから、気にしなくていいって」
苛立ちを隠せないまま、四ツ柳は晦を見下ろした状態で晦の誘いを拒絶する。
「いいから、早く外に出ようぜ? 早くしないと吞み込まれるかもって、あんたも言っただろ」
「早く出るためにもだよ。この異界は、感情や記憶に訴えかけてくる作り……なわけだし、四ツ柳に信用されていないとなると」
ぽりぽりと、困った表情をしながら晦は頬をかく。視線を床に落としてから、一拍置いて四ツ柳の目を真っ直ぐ見て眉を下げたままふにゃりと微笑む。
「少し寂しいしな……」
「寂、しい……?」
「寂しいだろ? せっかく仲良くなれたと思ったのに、気がかりなことも話してもらえないくらいだったのかと思ったら」
真摯に、そう言葉をぶつけてくる晦に、四ツ柳は「俺は、ただ……、ただ」としどろもどろになる。
晦に悲しい思いをさせたいわけではなかった。早く異界から無事に脱出しなければという思いが、あまりにも先行してしまっていたのだということに、言われて初めて、四ツ柳は気がついた。
「俺は、知ってる人間が……全く違う人間になってくのを、もう見たくない、だけだ。だから早く……」
ここから出たいんだ、と四ツ柳は俯いた。
「もう見たくない? ……そういえば、四ツ柳はこの学校に来る前から異界について知ってたん、だっけ」
ソファーにゆったりと座り、晦は顎に手を当てて考える。「……その話を聞くには、場所が悪いかな」と未だソファーへと座りに来ない四ツ柳を見て息を吐くように溢す。
「わかった。四ツ柳が心配している事はわかったよ。ごめんな。先生普通に楽しんじゃってるとこあったよ。そういうの不安になるよな」
「気がかりなことは何だって、聞くなら!」
ソファーから立ち上がって近づこうとする晦に、全身の筋肉をこわばらせて四ツ柳が叫ぶ。
「じゃあ! じゃあ、持ってるナイフを捨てて……」
叫びながら言葉を詰まらせ、次第に四ツ柳の言葉は尻すぼみになっていく。
「無理なのはわかってんだ」
四ツ柳はどれだけ理不尽で無意味なことを晦に要求しているのかと恥じ入り、ぎゅうっと握りこぶしを作る。
「俺の知らない所で、知らないうちに変わってくるのだけはやめて欲しい、そんなの見たくないから早く出よう……って、必要ない心配してんだよ。あんたはきっと大丈夫なのに。バカみたいだろ」
晦から目を逸らし続けたまま、四ツ柳は乾いた笑いを浮かべて言った。
晦は白衣からナイフを取り出し、少しだけ考え込んだ様子を見せたかと思うと、倉庫を見回して厚手のタオルを見つけ、それをぐるぐるとナイフに巻き付けて縛りあげる
「確かに捨てられないみたいだから、せめて持ってても危なくないようにしとくな……」
「今のあんたが刺してこないのは、わかってるから。いつもみたいに、ぼーっとしてバカな発言しててよ」
「わかった……」
互いの間に、嫌な沈黙が数秒流れた。
そろそろ倉庫から出るかな、と空気に耐えかねた四ツ柳が足を動かそうとした横で「ばかな発言ってどれだ?」と考え込んでいたらしい晦が声を上げる。
今の沈黙、それを考えてだったのか? と疲れた顔をして四ツ柳はええとな……と答える。
解説するのか、これを。
「今日全くつっこんでないけど、振り返ってみろよ。脱出ゲーム発言とか、罠かもしれない料理に手を付けようとしてた発言とか……」
指折り数えて挙げながら、ほんとうにバカだなぁと四ツ柳は笑う。
「えっ、それダメだった?」
馬鹿だと言われると思っていなかったらしい晦が、きゅっと背筋と表情を正そうとしている様子が見えるのが、なんだか更におかしかった。
「こんな場所だし、俺自身、絶対大丈夫とは言い切れないけど……。頑張ってみる」
晦は、ぐっと拳を握ってそう宣言する。
そんな様子の晦を見ていると、なんだか焦っている自分のほうが数倍も馬鹿みたいに思えて来るから不思議だなと四ツ柳はしみじみと感じていた。
「俺は、この学校へは異界に踏み込みに来たんだけどさ。一緒に迷い込む相手が先生で良かったよ。それは前回も、今回も思ってる。だから別に、気張らなくていーよ」
やっぱり、こういう対話が得意なのは保健の先生だってことを認識させられるなと、四ツ柳は自身の胸に手を当てる。酷い焦燥感が、すっきりと剥がれ落ちたような感覚があった。
「ありがとな、せんせー」
諦めずに話そうとしてくれて、と。少し照れながら、玄関のカギを握りしめて、倉庫の扉へと向かった。
晦も、ほっとした表情を浮かべて足早に四ツ柳の後に続いていく。
倉庫の扉はバタンと閉められて、誰のモノかもわからない思い出だけが暗闇の中へと仕舞われた。
八.イグジット
通路を抜け、再びエントランスへと戻ってくる。
先ほどダイニングから倉庫へ向かうときに比べれば、その場所は大きく様変わりをしていた。
艶やかな絨毯は無残に踏みにじられ赤黒く染まっており、その色はその場にいる、四ツ柳と晦以外の、誰かを中心として広がっていた。
「……! ちょっとまって四ツ柳」
晦が先に進む四ツ柳の手を引く。
「……見ないほうが」と晦が声をかけて来るが、四ツ柳は首を横に振って、目の前に見える人影を壁の影に隠れながら覗き込んだ。
人影は玄関扉から外に出ようと、鍵をさしこんでいるところだった。
カチャリと音を立てて、人影が鍵を回そうとした瞬間だった。どん!と何かが人影の背中に突き立てられた音がする。
「置いていくなんて許さない」
薄暗い声が聞こえてくる。それはもう一人の影で、晦の声と姿をしていた。
晦の声をした影は、血に塗れたナイフを手に持って俯き佇んでいる。
その目線の先には外に出ようとした人影が、四ツ柳の姿をした何かが血だまりの中に倒れ伏している。
四ツ柳は思わず隣にいる晦を見上げるが、普段と変わらない様子で隣に居てくれる。
「俺たちは一緒にこっから出るんだから、関係ねえよな? 先生?」
ぎゅっと晦の手を強く握りしめ、先生はあんなことをする人じゃないと目の前の光景を睨みつけた。
「本物の俺は、こっちだ」
握った手が、晦によって強く握り返される。
「……大丈夫」
晦はいつもよりも優しく囁くような声を出しながら、繋がれていない腕を四ツ柳の背中に回して抱き寄せる。
四ツ柳がぽかんと口をあけて固まった表情を見せたのを、晦はじっと見つめ、はっと何かに気がついた表情をしてから、わーっと顔が赤くなっていく。
「今なんか、へんな、ごめん……っ」
「ん……? あ? えっ、何、何!?」
片手は繋いだまま、背中に回された腕がばっと離され上にあがる。
なんだか様子がおかしかった、話しかけるタイミングが悪かったら異界に呑みこまれかけていたのだろうかと四ツ柳は慌てる。
それにしたって、どういう呑み込まれの仕方をしたら、そうなるんだ!?
「っ、いや、なんでも、というか、逃げよう!?」
「お、おう! 問題なし! 問題なし! 俺らは一緒に出る、何事もなく! オッケー!?」
四ツ柳は晦の背中をバシバシと叩き、逃げようという言葉に頷く。
玄関先に目をやれば、先ほど居た人影は見えなくなっていた。
「鍵! 開けるぞ!」
ぐいと晦をひっぱって、走り出す。
倉庫で拾った鍵を合わせれば、難なくカチャリと音を立てて扉は開かれる。
以前にも見たような眩い光が扉から漏れ出すと、館全体が叫んでいるかのような悲鳴が木霊し、館を揺るがす。
ばっと後ろを振り返れば、泣き叫ぶ無数の影が館から出ようとする四ツ柳と晦を連れ戻そうと、躍起になって飛び掛からんとしていた。
「裏切るなんて、許さない!」
誰のものとも知れない、幾人もの声が重なる。無事にここから出ようとする二人を、恨むように、羨むように。
「あばよ、クソったれな異界ども! 人のこと、簡単に弄れると思うなよ!」
誰とも知れぬ人影にそう叫びつつ、光の中へと飛び込んでいく。
「はあーもう! びっくりしたぁ。色んな意味で怖かったな、最後……」
「手え離すなよ! あんた、どっかで転んでそうだからな!」
「ん、ああ。転ばないって! ……たぶん」
何故か自信の無さそうな晦の発言に、本当に転ぶなよ!と四ツ柳が笑う。
走っている間に解けかけた手を再度握りしめ、道も何も見えない光の中を駆け抜けていく。
「四ツ柳ってモテそうだな……?」
「ばぁーか、ハズレだよ」
気の抜けた晦の呟きに、何を言っているんだかと呆れた声で返す。
やがて視界は全て白くなり、お互いの姿もわからなくなる。繋いだ手の暖かさだけが最後まで残っていたが、気がつけば意識を手放していた。
九.異界調査報告
はっと、目を覚ます。
慌てて四ツ柳が飛び起きれば、そこは自室のベッドの上だった。
カーテンの隙間から、眩しい朝日がのぞいている。
「んん……ふぁ……。すっげぇ夢見た……夢なのかあれ……」
伸びをしながら、大きなあくびをする。あまりにもドタバタした夢を見ていたからか、全然眠れた気がしなかった。
顔を洗いに行くかとベッドから降りると、紙らしき何かを踏んづける。
教科書かなにか床に置きっぱなしにしていたっけ、と足元を見れば、夢の中で見た筈のノートや指輪、ナイフが転がっている。
「うっわぁ」
夢の中の出来事だった筈なのに、持って帰って来れたのか。
床から拾い上げて手に取る。
ノートをぱらぱらと捲れば、あの悲痛な叫びが綴られていた。
「これは報告書を書いたついでに財団の人に送っとくか……あれ、俺、ようやくまともに仕事できたんじゃね!?」
確か、異界から持ち帰ったアーティファクトは、受け渡すならば相応の報酬が貰えるのだと聞いた。
指輪に至っては、異界を視ることのできるフェイズシフターの力を、手を繋がずに借りられるという代物だ。
相当の価格を付けて貰えるんじゃないだろうかと四ツ柳は手を上げて喜び、背中からベッドに倒れ込む。
「や、喜んでる場合じゃねえな。先生のほう大丈夫なのか?」
自分が異界に訪れ、帰還した記憶があるなら、だ。晦も異界に訪れていた記憶があるに違いない。
影響は何かなかっただろうか確認しに行かなければと、四ツ柳はばたばたと朝支度をはじめ、学校へ向かうことにした。
授業が始まる前、やや早めの時刻に保健室の扉を覗き込む。どうやら晦も在室しているようで、構わずガラガラと保健室の扉を開いた。
「居た居た。おはよー先生」
「おはよう! 四ツ柳、元気か?」
挨拶をして中に入ると、晦がぱぁっと顔を輝かせて四ツ柳を出迎えた。晦がやけにソワソワしているのは、気のせいではないだろう。
「元気だし、ちょっとした成果も挙げてご機嫌ってとこだな」
どこも変わった様子はなさそうな晦をみて、「無事でよかったよかった」と四ツ柳が呟くと、晦がほっと一息した様子で「あ、やっぱただの夢じゃないよな……! よかった! 無事で」と胸を撫でおろしていた。
夢だったのか現実だったのか、聞きたくてずっとウズウズしていたらしい。
「飴、新しいのあるぞ」
「飴、いるいる! 割と急いで出てきたから朝飯少な目だったんだよな」
椅子に座って、晦が飴の瓶の蓋をあけた。
一つ、二つ、小分けの飴を掌に乗せて貰い、四ツ柳は一つ一つ口に入れる。
「そういえば、成果ってなんだ?」
「そうそう、あー……まあ詳しいことは追々話す、けど」
「うん、まあ、追々聞かせてくれたら嬉しいよ」
先生、何も知らないから何処から話すか迷いがちなんだよなと四ツ柳は飴を口の中で転がしながら天を仰いで考える。
「とりあえず近いうちに小遣い貰えそうだから、功労者のせんせーにも何かやるよ。何が良い?」
「功労者……? うーん。異界関係でなにか危ないことしてるんじゃないだろうな?」
「べつに危ないことでってわけじゃなくて副産物……」
「それに、生徒にたかるほど困ってないし、お小遣いなんだろ。四ツ柳の好きに使いなさい」
「えーっ、マジでせんせーいなきゃ発生しなかった臨時収入だから! 何か考えといて!」
たぶん、それなりの額を貰えるはずだと四ツ柳は興奮気味に言う。「副産物……」と晦は訝しがるが、これを上手く説明するにはあまりにも時間がなさすぎるのだ。朝のホームルームまでには間に合わないだろう。
「俺が先生に何かあげたいんだよ」
いっそのこと買ってしまって押し付けるか、と保健室をぐるっと見回して、黄緑色の謎の生物と目が合う。
「ぬいぐるみ増やすか?」
ガタッと晦が座っていた椅子が動いた音がする。
前を向けば、驚いた表情の晦が腰を浮かせており、四ツ柳が視線を晦に合わせると、諦めたかのように座り直す。
「い、いいから! ちゃんと買うと高いし……」
趣味がバレたことが恥ずかしいだけらしく、もごもごと「……まあ、小さいのは何千円かくらいで……」と言っているあたり、ぬいぐるみは貰って嬉しいものではあるらしい。
似合わないこともないとは思うのだけれど、これ以上は追及すまいと、四ツ柳は落ちつけていた腰を上げる。
「ま、どれだけ入るかか。捕らぬ狸の皮算用に近いし……また聞きに来るからさ!」
保健室にかかっている時計を見れば、予鈴が鳴りそうな時間にまでなっていた。
「何のお金がどれくらい入るのか知らないけど、出どころはちゃんと教えてもらわないと受け取らないからな」
「オッケー、言ったな! 言質とった……ってあー、まあ黒い金では……ねえよ、たぶん」
四ツ柳も、件のアーティファクトを買い取ってくれるらしい三日月財団の話は詳しくは知らないのだ。裏で闇稼業の人と繋がっていないか、と聞かれればわからないと答えるしかない。
拘置所に関係者として訪れていた人達だし、黒くはないだろうと頷いた。
「まあ、とりあえずほんと……元気そうでよかったよ。もう少し……話してくれることが増えると先生も嬉しいんだけどな」
「んーーまぁ、誰にも言うなよ?」
これだけ手伝って貰ってるんだし、言っておくかぁ、と四ツ柳は晦の耳元に近づいて耳打ちをする。
「異界調査の仕事」
キーンコーンカーンコーン、という予鈴の音が鳴る。やべっ、と四ツ柳は慌てて置いていた鞄をひったくって保健室の扉の方へ駆け出した。
「……!? 異界の調査? 仕事? ……え、どういう!?」
詳しく聞こうとした晦の声が、背後から聞こえ来る。
四ツ柳は扉からだけを覗かせて、しーっと口に指を立て「じゃあ、また放課後な、せんせー!」と言って晦の前から姿を消した。
保健室の中から、「ああ、もう! 廊下は走るなよ!」と注意する声が聞こえてくる。
慌てて教室の中へ滑り込んで、学友たちが「遅かったね、寝坊でもした?」と迎え入れてくれる。
この学園生活も、案外悪くはない方向へと向かっているのかもしれない。
十.保健室の記録
晦は深く職員用の椅子に座り込んで、ばたばたと慌ただしく駆けて行った生徒のことを考えていた。
今年の春に学園に編入してきたという、高校1年生。この学園なら四回生と呼ぶべきか。随分なつかれたなぁ、きっと気難しい子で、寮生活にも慣れなくて困っているんだろうな等と軽く考えていたのだが、随分と変わった子だったらしい。
「……異界の調査。それで、保健室によくくるのかな……。俺がよく、変なもの見てるから……?」
どこまで調べがついているんだろう、と不思議に思った。
「……うーん、まだ15歳……くらいだよな。一年生なら。働いてる、のかあ」
アルバイトであれば確かに働いていても不思議ではないだろう。まさか全寮制の学園内でアルバイトをするような子が居るとは思わなかったけれど。
ぱらぱらと、この春に行った健康診断の表を取り出した。四回生の三組所属。健康診断を行った際は流れ作業で気がつかなかったが、どうやら誕生日は過ぎて居たらしく、16歳と記入されていた。
「調子の悪さとか、隠す癖がありそうなのが心配なんだよな……」
保健室を訪れる生徒達の記録を書き記したファイルを取り出して、晦は四ツ柳のことを書いていく。俺のことは気にしなくていい、とか自分を後回しにしがちな様子があったなと思い返しながら。
異界でのあの様子から、何かを抱えているのはわかったけれど、踏み込むタイミングが難しい。適度に距離を間違えないようにしつつ、サポートしてあげないとな……と晦は記録するペンを走らせた。
「あ、……帰ってこれたのに礼を言うの忘れてたな」
晦は頬をかきつつ、呟いた。
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GM:まよこ/シフター:晦端午、PL:ゆかり/バインダー:四ツ柳諒
リプレイ小説書き起こし・扉絵イラスト:ゆかり
扉絵に使用したロゴ:『アンサング・デュエット』の公式ファンキットより。(C)Fuyu Takizato / Draconian (C)KADOKAWA